3行まとめ
知財戦略が経営と統合、GXとDXの二大領域に集中
MHIの知財戦略は、経営戦略「MISSION NET ZERO」と完全に連動し、「エナジートランジション」と「デジタルイノベーション」の二大重点領域に知財投資を集中させています。
CO2回収(CCUS)技術で競合を圧倒する特許ポートフォリオを構築
特にCCUS(CO2回収・利用・貯留)技術分野では、第三者機関の分析で総合スコア431.7、有効特許165件を記録し、競合を圧倒する技術的優位性を確立しています。
「モノ売り」から転換、ライセンス網構築によるIP収益化を加速
今後はデジタルブランド「ΣSynX」を軸に「コト売り」へ移行すると共に、「2024事業計画」に基づきライセンス網構築を進め、知財を直接的な収益源とするモデルを加速させます。
本レポートは、三菱重工業株式会社(以下、MHIグループ)の知的財産(以下、知財)戦略について、公開情報を基に網羅的かつ多角的に分析するものである。MHIグループの知財戦略は、単なる技術保護の枠を超え、企業全体の事業ポートフォリオ変革を導く羅針盤として機能していることが明らかになった。
三菱重工グループ(MHIグループ)の知的財産戦略は、単なる発明の保護や模倣の防止といった従来の機能的側面に留まらず、企業全体の経営理念と事業戦略を根幹から支える、極めて戦略的な位置づけを与えられている。その基本思想は、同社が公式に掲げる「社会課題を解決するための独自技術の開発とその知的財産化により、お客様、事業パートナー、そして当社グループとが共存共栄となる関係の構築」という方針に集約されている²。これは、知財を独占や排他のためのツールとしてのみならず、より広範なエコシステムを形成し、その中で主導的な役割を果たすための基盤と捉える現代的な知財観を明確に示している。
この基本方針は、MHIグループが直面する事業環境の変化と、それに対応するための二つの大きな経営目標と深く結びついている。第一に、2040年のカーボンニュートラル達成を宣言した「MISSION NET ZERO」である²。気候変動という地球規模の課題に対し、火力発電システムや原子力事業で長年培ってきたエネルギー供給技術を核に、水素・アンモニア燃焼技術、CCUS(CO2回収・利用・貯留)といった脱炭素化技術で貢献することを目指している。この壮大な目標達成には、莫大な研究開発投資と、その成果である独自技術の確実な保護・活用が不可欠である。MHIグループは、エナジートランジション関連技術に対する知財投資を近年増強していることを公式に認めており²、経営の最優先課題と知財戦略が完全に同期していることが見て取れる。
第二に、「安心できる社会基盤の構築」である²。これは、物流の自動化、データセンターの安定稼働、各種インフラの強靭化といった現代社会が求めるニーズに応えるものである。ここでの中核をなすのが、デジタルイノベーションブランド「ΣSynX(シグマシンクス)」に代表される、製品群の知能化・自律化技術である²。物理的な「モノづくり」の強みに加え、ソフトウェア、データ、制御アルゴリズムといった無形資産の価値が飛躍的に高まっており、これらをいかに知財として保護し、競争優位につなげるかが事業の成否を分ける。
こうした経営方針を具体的な事業計画に落とし込んだものが、2024年5月28日に発表された2024年度から2026年度までの3ヵ年の中期経営計画(2024事業計画)である¹⁵。この計画は、最終年度である2026年度に売上高5兆7000億円以上(2023年度比20%増)、事業利益4500億円以上(同60%増)という挑戦的な目標を掲げている¹³。そして、その目標達成に向けた重要な戦略の一つとして、「知財戦略に基づくライセンス網構築」が明確に掲げられている³⁵。これは、MHIグループの知財戦略が、自社製品の市場優位性を確保するという従来の役割に加え、保有する技術プラットフォームを他社にライセンス供与することで新たな収益源を確立し、パートナーリングを通じて事業規模の拡大(スケール化)を目指すという、より能動的で収益志向の強いフェーズへと移行したことを示す決定的な証左である。この戦略転換を支えるため、同計画では3年間で1.2兆円の投資を計画しており、そのうち最大の6500億円が、まさに知財が中核となる「伸長事業・成長領域」に割り当てられている³⁵。
MHIグループの知財戦略は、単に研究開発の成果を守る「盾」ではなく、社会課題解決という壮大な目標を掲げ、事業ポートフォリオそのものを変革し、新たな収益モデルを構築するための「羅針盤」として機能している。同社が目指すのは、自社の技術的優位性を核としながらも、他社を巻き込み、バリューチェーン全体で課題解決に取り組む「仲間づくり」であり、そのエコシステムの「ハブ(結節点)」となることである²。このビジョンにおいて、知的財産は、パートナーシップのルールを定め、エコシステム全体の価値を向上させ、そしてMHIグループがその中で公正な対価を得るための、不可欠なガバナンス・ツールなのである。この思想は、一企業が単独ですべてを解決することが困難な現代において、極めて合理的かつ先進的なアプローチであると評価できる。
三菱重工グループ(MHIグループ)の知的財産(知財)マネジメント体制は、同社のコングロマリット経営の強みを最大限に活かすべく、中央集権的な戦略統制と、事業部門ごとの自律的な活動を両立させる「ハブ・アンド・スポーク」型の組織構造を特徴としている。この体制の頂点に立つのが、最高技術責任者(CTO)である³⁵。知財戦略の最終的な監督責任を、法務部門や事業戦略部門ではなく、技術開発のトップであるCTOが担うという点は、MHIグループが知財を技術戦略と不可分一体のものとして捉えていることを明確に示している。CTOは経営会議や取締役会への報告ラインを持つだけでなく、「事業リスクマネジメント委員会」の主要メンバーでもあり⁷⁵、これにより知財関連のリスクが経営レベルの重要リスクとして認識・管理される体制が担保されていると推察される。統合報告書2025(MHI REPORT 2025)においても、CTOが技術基盤の変革と長期的な成長の土台づくりを主導する役割を担うことが強調されており²⁵、その中核に知財ポートフォリオの戦略的構築が含まれていることは論を俟たない。
このCTOの指揮のもと、グループ全体の知財戦略の策定、特許ポートフォリオの分析、重要紛争への対応、そしてグループ横断的な施策の推進といった中枢機能を担うのが、本社の知的財産部である³。この部門は、単なる出願・権利化手続きを行う事務組織ではなく、「知的資産を有効に活用し事業に貢献する専門家集団」と自己規定しており³、その業務範囲は知財方針策定から権利活用、紛争対応まで多岐にわたる。東京(田町、丸の内)、名古屋、高砂、長崎といった主要な事業・開発拠点に専門部隊を配置し³、物理的な近接性を通じて事業部門や研究所との緊密な連携を図っている。
一方で、MHIグループの多様な事業ポートフォリオに対応するため、各事業部門には「知的財産責任者」が任命されている³⁵。この責任者がスポークの役割を果たし、それぞれの事業計画に基づいた具体的な知財戦略を策定・実行する。例えば、グループ会社である三菱重工機械システムでは、同社の知財責任者の下、事業本部と共同で知財活動を推進する体制が明記されている³²。この分権的な体制により、各事業の市場環境、競合状況、技術動向に即した、機動的で実効性の高い知財活動が可能となる。そして、各部門の活動は、本社の知的財産部によるグループ知財マネジメントのもとで統括され、グループ全体として有機的に連携した活動が運営される仕組みとなっている³²。
この体制の最も重要な特徴は、事業、研究開発、知財の三部門が密接に連携する「三位一体」の活動モデルを志向している点である³²。MHIグループは、商品企画や研究開発の立案といった「上流段階」から知財部門が戦略的に関与することを方針として掲げている²。これにより、研究開発の方向性が市場ニーズや事業戦略と合致しているか、そしてその成果が有効な知的財産権として保護可能か、といった点を早期に検証できる。結果として、投資対効果の高い研究開発と、競争優位に直結する強力な知財ポートフォリオの構築が実現される。
この「三位一体」モデルが具体的に機能している証左として、2024年5月に新設された「GX(Green Transformation)セグメント」における知財担当者の募集要項が挙げられる⁵。この求人では、CCUS(CO2回収・利用・貯留)事業に特化した知財・ライセンス管理担当者を募集しており、その業務内容はCO2回収プロセスのライセンス契約管理から技術データ管理まで、事業の根幹に深く関わるものとなっている⁵。これは、知財担当者が単なる後方支援部隊ではなく、事業部門の内部に深く入り込み、事業戦略の立案と実行に直接的に貢献するフロントラインの役割を担っていることを示している。このような組織設計は、知財を事業成長のドライバーとして最大限に活用しようとするMHIグループの強い意志の表れであり、その知財戦略の実効性を担保する組織的な基盤となっている。
三菱重工グループ(MHIグループ)の知的財産(知財)戦略は、全社的な経営方針に基づき、特定の技術領域にリソースを集中投下する「選択と集中」を明確に実践している。そのポートフォリオを詳細に分析すると、特に「エナジートランジション」「デジタルイノベーションと自律化・知能化」、そしてそれらを応用した「安全・安心な社会基盤の構築」という三つの柱が浮かび上がる。これらの領域における知財活動は、単に技術を守るだけでなく、新たな市場を創造し、事業モデルを変革するための戦略的な布石となっている。
MHIグループの知財戦略において、最も優先度が高く、かつ最も強力なポートフォリオが構築されているのがエナジートランジション領域である。これは、同社のカーボンニュートラル宣言「MISSION NET ZERO」を具現化するための核心であり、知財投資を近年増強していると公言する重点分野である²。
その中でも特に象徴的なのが、CCUS(CO2回収・利用・貯留)技術である。第三者機関によるCO2吸収・吸着分離技術に関する特許分析レポートでは、MHIグループは総合スコア431.7、有効特許件数165件で競合を圧倒しており、まさにこの分野の支配的プレイヤーであることが客観的なデータで裏付けられている⁷⁴。その技術的強みは、アミン系吸収液を用いた化学吸収法と、排ガス処理システムにおける多層構造のCO2回収プロセスに関する特許群に集約される⁷⁴。2009年から2011年にかけて集中的に出願されたこれらの特許は⁷⁴、同社の長年にわたる研究開発の成果であり、他社の追随を許さない強固な「パテント・フォートレス(特許の砦)」を形成している。この強力な知財ポートフォリオは、プラントの性能と信頼性を保証するだけでなく、将来のライセンス事業における強力な交渉材料となる。
次に重要なのが、水素・アンモニアのバリューチェーン全体をカバーする知財戦略である。MHIグループは、高効率な水素製造装置であるSOEC(固体酸化物形電解セル)の開発から²⁴、水素・アンモニアを燃料とするガスタービンの開発・実証に至るまで²、製造・貯蔵・輸送・利用の各段階で技術開発と知財化を推進している。これは、将来の水素社会において、特定のコンポーネント供給者にとどまらず、バリューチェーン全体に影響力を持つプラットフォーマーとなることを目指す野心的な戦略の表れと解釈できる。
さらに、次世代原子炉に関する知財活動も活発である。公開されている特許情報からは、受動的安全性を強化した革新軽水炉(SRZ-1200など)や、モジュール性を高めた高温ガス炉に関する技術開発が進められていることがうかがえる⁴。例えば、炉心構造において燃料層と熱伝導層の積層数を可変にすることで出力調整の柔軟性を持たせる発明など⁴、安全性と運用性の両面から既存技術の改良を図る知財が確保されている。これは、原子力エネルギーを脱炭素社会における重要なベースロード電源として再定義し、その市場で主導権を握るための長期的な投資と言えるだろう。
MHIグループがエナジートランジションと並行して注力するのが、デジタル技術を駆使した製品・サービスの高度化である。その中核をなすのが、デジタルイノベーションブランド「ΣSynX(シグマシンクス)」である²。ΣSynXは、「かしこく・つなぐ」をコンセプトに、様々な機械システムを同調・協調させ、自律化・知能化を実現するための標準プラットフォームとして位置づけられている¹⁰²˒¹⁰⁸。
この領域における知財戦略は、ハードウェアそのものよりも、システム全体を制御するソフトウェア、アルゴリズム、そして人と機械の協調を実現するアーキテクチャの保護に重点が置かれている。例えば、物流倉庫の自動化ソリューションでは、ΣSynXがハブとなり、メーカーを問わず無人フォークリフトやAGV(無人搬送車)といった多様な機器を統合制御する¹⁰³˒¹⁰⁴。この「統合制御」部分こそがΣSynXの価値の源泉であり、MHIグループはここに知財を集中させ、システム全体の付加価値を確保する戦略をとっている。キリンホールディングス株式会社の物流センターへの導入事例では、ΣSynXが4台の無人フォークリフト、11台のAGV、1台のピッキングロボットを統合制御し、従来人手に頼っていたピッキング作業の自動化を実現した¹⁰⁹˒¹¹¹。このような成功事例は、ΣSynXの有効性と、それを支える知財の価値を証明している。
さらに、ΣSynXは遠隔監視・保守サービス「ΣSynX Supervision」へと展開されている¹⁰⁷。これは、小型CO2回収装置や交通システムといった社会インフラに実装され、稼働データの収集・分析を通じて運用の最適化や予知保全を可能にするものである¹⁰⁵。ここでの知財は、物理的な機械の制御だけでなく、デジタルツインやAIを活用したデータ解析モデルや、サイバーセキュリティ技術にも及ぶと推察される。MHIグループは、製品を「売り切る」ビジネスから、運用・保守サービスを通じて顧客と長期的な関係を築き、継続的に収益を上げる「リカーリング・ビジネス」への転換を図っており、ΣSynX関連の知財ポートフォリオはその事業変革を支える生命線となる。
MHIグループは、上記二つの最先端領域で培った技術を、航空・防衛や各種インフラといった伝統的な基盤事業に応用し、その競争力維持・強化を図っている。
その一例が、データセンター事業への取り組みである。デジタル社会の進展に伴い、データセンターの需要は爆発的に増加しているが、同時にその膨大な消費電力が課題となっている。MHIグループは、ガスタービンや冷却システムで培ってきた熱マネジメント技術を応用し、データセンターの安定稼働と省エネを両立させる電源・冷却システムの知財網構築に積極的に投資している²。これは、既存の強み(熱マネジメント)と新たな市場ニーズ(データセンター)を掛け合わせた、巧みな知財戦略と言える。
また、防衛・宇宙分野においても、将来事業の創出に向けた技術開発を加速する方針が示されている²⁴。具体的な内容は機密性が高く公開情報からはうかがい知れないものの、ΣSynXで培われた無人化・自律化技術や、サイバーセキュリティ技術が応用されている可能性は高い。これらの分野は国家安全保障に直結するため、強固な知財ポートフォリオは事業継続性の観点からも極めて重要である。
MHIグループの知財ポートフォリオは、このように複数の技術領域にまたがりながらも、エナジートランジションとデジタルイノベーションという明確な二つの軸に沿って戦略的に構築されている。特に注目すべきは、CCUSのような比較的技術が成熟しつつある分野では、他社を圧倒する「パテント・フォートレス」を築き上げてライセンス収益を狙う一方、ΣSynXのような黎明期のデジタルプラットフォーム分野では、システムの中核となる制御・統合技術に知財を集中させ、他社を巻き込むエコシステム形成を目指すという、技術の性質に応じた巧みな戦略の使い分けである。この「バーベル戦略」とも呼べるアプローチが、同社の持続的な競争優位の源泉となっていると分析できる。
三菱重工グループ(MHIグループ)の知的財産(知財)戦略の有効性を評価するためには、同業他社との比較分析が不可欠である。国内の総合重工業界、およびグローバル市場で直接競合する海外企業との対比を通じて、MHIグループのポジション、強み、そして課題を客観的に浮き彫りにする。分析にあたっては、公開されている特許出願件数、各社の統合報告書やIR資料から読み取れる戦略方針、そして注力する技術領域を総合的に勘案する。
国内市場において、MHIグループの主要な競合は、株式会社日立製作所、川崎重工業株式会社、株式会社IHIが挙げられる。
株式会社日立製作所は、近年「Lumada」を核とするデジタルソリューション事業への傾注を鮮明にしており、その知財戦略もIT・OT(制御・運用技術)融合領域に大きくシフトしている。2025年の統合報告書では、CIPO(最高知財責任者)主導のもと、従来の発明に加え、ソフトウェア、データ、ノウハウといった無形資産全体の保護・管理を強化する方針が示されている⁶⁹。特許出願公開件数も国内トップクラスを維持しており、2025年には964件と、MHIグループとは異なる領域で巨大な知財ポートフォリオを形成している⁴⁵˒⁴⁶。MHIグループの「ΣSynX」が重工業由来のフィジカルなシステム制御に強みを持つのに対し、日立製作所はより広範な社会インフラやエンタープライズIT領域でのデータ活用に軸足を置いており、デジタル市場での競合は今後さらに激化すると予想される。
川崎重工業株式会社は、MHIグループと同様に「事業」「研究開発」「知的財産」の三位一体活動を推進しており³³、特に水素関連技術や産業用ロボット、航空宇宙分野で強力な技術基盤を持つ。2025年の特許出願公開件数は262件と、MHIグループに次ぐ規模を誇る⁴⁹。特に水素分野では、液化水素運搬船から水素ガスタービンまで、サプライチェーン全体をカバーする技術開発を進めており、MHIグループにとってエナジートランジション領域における直接的かつ強力なライバルである。
株式会社IHIは、2025年の特許出願公開件数が83件と、規模では前述の3社に劣るものの⁵¹、航空エンジンとアンモニア燃焼技術という特定の分野に経営資源を集中させている。特にアンモニア分野では、火力発電所での混焼実証などで世界をリードしており、MHIグループが注力するアンモニアバリューチェーンにおいて、技術開発と国際標準化を巡る競争が激化することは必至である⁸⁷。
一方、グローバル市場に目を向けると、競争の様相はさらに厳しくなる。
Siemens AGは、世界有数の知財大企業であり、年間2,500〜3,000件の新規特許出願を行い、約10万件の特許を保有する巨大ポートフォリオを誇る⁵⁷。同社の知財戦略は2013年以降、単なる「量」から「質」へと大きく舵を切り、「Patent Asset Index™」のような客観的指標を用いてポートフォリオの価値を測定・管理している⁵⁸˒⁶²。特に、シミュレーション、デジタルツイン、AIといった産業用ソフトウェア分野では、5,120件以上の特許ファミリーを保有し、競合の2倍以上の規模を持つと公表している⁶⁰。これはMHIグループの「ΣSynX」戦略にとって最大の脅威であり、デジタルプラットフォームの覇権を巡る競争がいかに熾烈であるかを示している。
**General Electric Company (GE)**もまた、特にエネルギー(風力、ガスタービン)と航空分野で世界最大級の特許ポートフォリオを保有する⁶³。近年の事業分割により、航空宇宙事業を担うGE Aerospaceと、エネルギー事業を担うGE Vernovaに分社化されたが、それぞれの事業体が継承した強力な知財ポートフォリは依然としてMHIグループの各事業にとって大きな競争圧力となる⁶⁸。特にガスタービン技術における長年のライバル関係は、水素・アンモニアといった次世代燃料への移行期においても継続すると見られる。
これらの比較から、MHIグループの知財戦略は、国内では特定の技術領域(特にCCUS)で圧倒的な優位性を築きつつ、グローバルなデジタル市場ではSiemensのような巨大企業と、エネルギー市場ではGEや国内競合と、それぞれ異なる戦略で対峙する必要があることがわかる。以下の比較表は、各社の戦略的ポジショニングをまとめたものである。
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項目 |
三菱重工業 |
日立製作所 |
川崎重工業 |
IHI |
Siemens AG |
General Electric (GE Vernova/Aerospace) |
|
年間特許出願公開件数(国内、2025年) |
(非公開、ただしCCUS分野で圧倒的多数⁷⁴) |
964件⁴⁵ |
262件⁴⁹ |
83件⁵¹ |
N/A (グローバルで2,500-3,000件⁵⁷) |
N/A (グローバルで極めて多数⁶³) |
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知財戦略の基本方針 |
社会課題解決を起点とするエコシステム形成、ライセンスによる収益化²˒³⁵ |
CIPO主導によるデジタル・Lumada関連の無形資産(データ、SW)保護⁶⁹ |
事業・研究開発・知財の三位一体活動³³ |
重点事業への集中投資、国際標準化の推進⁸⁷ |
「量」から「質」への転換、ポートフォリオ価値の客観的評価⁵⁸ |
各事業領域(エネルギー、航空)における技術的リーダーシップの維持⁶⁷ |
|
主要な技術フォーカス |
CCUS、水素・アンモニア、次世代原子力、ΣSynX(自律化・知能化)² |
Lumada(IT/OT融合)、AI、社会インフラ、エネルギーマネジメント⁶⁹ |
水素バリューチェーン、ロボティクス、航空宇宙、船舶³³ |
アンモニア燃焼、航空エンジン⁸⁷ |
産業用ソフトウェア、デジタルツイン、AI、オートメーション、医療⁶⁰ |
ガスタービン、風力発電、航空エンジン⁶³˒⁶⁷ |
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戦略的特徴 |
CCUSでの「砦」とデジタルでの「エコシステム」形成を両立するバーベル戦略 |
デジタルソリューションプラットフォームへの全面的な傾注 |
陸・海・空・深海にわたる広範な技術基盤と水素への集中 |
特定のニッチ分野(アンモニア)での世界的リーダーシップ追求 |
巨大なポートフォリオを質的指標で管理するデータドリブンなアプローチ |
分社化による事業フォーカスの明確化と各分野での圧倒的知財 |
この表から明らかなように、MHIグループは広範な事業領域を持つ点でGEと類似しているが、デジタル分野では日立製作所やSiemensとの競争に直面し、特定の脱炭素技術では川崎重工業やIHIとしのぎを削るという、複雑な競争環境に置かれている。この中で持続的に成長するためには、自社の強みであるCCUSのような分野でリーダーシップを確固たるものにすると同時に、デジタル分野ではパートナーシップ戦略を駆使して巨大な競合に対抗していく、巧みな知財戦略の実行が求められる。
三菱重工グループ(MHIグループ)の知的財産(知財)戦略は、野心的かつ多岐にわたるがゆえに、その実行過程において短期・中期・長期の時間軸で様々なリスクと課題に直面する。これらのリスクを適切に管理し、課題を克服することが、戦略の成功、ひいては持続的な企業価値向上に不可欠である。
短期的なリスクは、日々の事業活動に内包されるものであり、主に他社知財権の侵害リスクと、自社知財権の保護に関するものである。
第一に、第三者の知的財産権を侵害するリスクである³¹。MHIグループがエナジートランジションやデジタルイノベーションといった技術的に複雑で、多数のプレイヤーが参入する分野へ事業を拡大するにつれて、意図せず他社の特許権や商標権を侵害してしまう可能性は増大する。特にソフトウェアやAI関連技術は、オープンソースの利用や多数のライブラリの組み合わせが一般的であり、権利関係が複雑化しやすい。侵害が認定された場合、差止請求や多額の損害賠償請求につながるだけでなく³¹、製品の製造・販売停止に追い込まれ、事業計画に深刻な影響を及ぼす可能性がある。このリスクを回避するためには、製品の研究開発から設計、製造の各段階で、他者が保有する知財を網羅的に調査し、クリアランスを確保する活動(Freedom-to-Operate調査)が極めて重要となる³²。
第二に、自社の知的財産を侵害されるリスクである³¹。MHIグループが多大な投資を行って開発した独自技術やブランドが、他社によって無断で使用されたり、模倣品が市場に流通したりするリスクは常に存在する。特に海外市場での事業拡大に伴い、法制度や商慣習の異なる国・地域での模倣品対策は重要な課題となる。侵害を放置すれば、直接的な売上機会の損失だけでなく、ブランド価値の毀損や、さらなる侵害行為を誘発する恐れがある³¹。これに対処するには、グローバルな監視体制を構築し、侵害を発見した際には警告、訴訟といった断固たる法的措置を迅速に講じることが求められる。
中期的なリスクは、事業戦略の実行そのものに関連する、より構造的な課題である。
第一の課題は、オープンイノベーションと営業秘密の保護の両立である。MHIグループは、自社単独での課題解決が困難な領域において、他社や研究機関との連携、すなわちオープンイノベーションを積極的に推進している²。この戦略は技術開発を加速させる一方で、自社の重要な技術情報やノウハウが外部に流出するリスクを増大させる。全ての技術を特許出願すれば内容は公開されてしまい、かといって秘匿すれば法的な独占権は得られない³¹。どの技術を特許として公開・権利化し、どの技術を営業秘密(トレードシークレット)として厳格に管理するのか。この「パテント-シークレット戦略」の策定と実行は、パートナーシップの利益を最大化しつつ、自社の競争力の源泉を守るための極めて高度な経営判断を要する。
第二に、グローバルな知財ポートフォリオの構築・維持コストと実効性の問題がある。MHIグループの事業は全世界に展開しており、それぞれの市場で事業を保護するためには、主要国・地域で特許や商標を取得・維持する必要がある。しかし、これは莫大な費用と専門的なリソースを要する。限られた予算の中で、どの国・地域に、どの技術分野で、どの程度の知財網を構築するべきか。このポートフォリオマネジメントの巧拙が、グローバルでの競争力を直接的に左右する。海外の知財制度に精通した専門家のサポートが不可欠であり³¹、戦略的な海外出願の重要性は増すばかりである。
第三に、高度専門人財の獲得と育成が挙げられる。MHIグループが注力するCCUSやAIといった先端分野では、技術そのものへの深い理解と、法律・ビジネス(特にライセンス契約)に関する高度な専門知識を併せ持つ知財人財が不可欠である。GXセグメントがCCUSの知財・ライセンス管理担当者を募集している事実は⁵、まさにこのような複合的なスキルを持つ人財への需要を物語っている。しかし、このような人財は世界的に希少であり、獲得競争は極めて激しい。社内での育成プログラムを強化するとともに、外部からの獲得にも積極的に取り組まなければ、戦略の実行を担う人材が不足するリスクがある。
長期的なリスクは、技術パラダイムの変化や産業構造の変革といった、より大きな環境変化に起因する。
第一に、破壊的技術の出現による既存知財ポートフォリオの陳腐化リスクである。例えば、MHIグループが強みを持つアミン系吸収液を用いたCO2回収技術に対し、全く異なる原理(例えば膜分離や固体吸着)に基づく、より低コストで高効率な新技術が登場した場合、既存の強力な特許網が一夜にしてその価値を失う可能性がある。このような非連続的な技術革新のリスクに対応するためには、自社の主力技術を深化させるだけでなく、常に外部の技術動向を監視し、時には自社の既存技術を破壊しかねない新興技術にも投資を行う「両利きの経営」が知財戦略においても求められる。
第二に、標準必須特許(Standard Essential Patent, SEP)を巡るリスクである。IoT、次世代通信(5G/6G)、スマートグリッドといった技術分野では、業界標準の策定が不可欠となる。特定の技術が標準規格に採用された場合、その技術の実施に必須となる特許(SEP)の保有者は、ライセンス交渉において非常に強力な立場を得る。MHIグループがこれらの分野で事業を拡大する上で、他社のSEPを公正・合理的・非差別的(FRAND)な条件でライセンスできるか、また、自社の技術を標準規格に組み込み、SEPを確保できるかは、将来の事業の自由度と収益性を大きく左右する。標準化活動への戦略的な参画が、長期的な競争力維持のための重要な課題となる。
MHIグループの強みである広範かつ深い技術基盤は、統合的なソリューションを提供する上で大きなアドバンテージとなるが、それは同時に、管理すべき知財ポートフォリオの複雑性と、直面するリスクの多様性を増大させるという側面も持つ。この固有の複雑性を乗り越え、リスクを適切にマネジメントしていくことが、同社の知財戦略が真に成功するための鍵となるだろう。
三菱重工グループ(MHIグループ)の知的財産(知財)戦略の将来は、地球規模のメガトレンドである「脱炭素化」と「デジタル化」、そして地政学的な環境変化と密接に連動しながら展開していくものと予想される。これらの外部環境の変化は、MHIグループが保有する知財ポートフォリオの価値を増大させる好機であると同時に、戦略のさらなる進化を促すドライバーとなるだろう。
世界各国でカーボンニュートラルに向けた政策が強化される中、日本政府も「GX実現に向けた基本方針」を掲げ、巨額の投資を計画している。この政策的な追い風は、MHIグループの知財戦略にとって最大の好機となる。同社が圧倒的な特許競争力を誇るCCUS技術⁷⁴や、開発を加速させている水素・アンモニア関連技術²は、まさにGX政策の中核をなすものであり、今後の大規模な社会実装プロジェクトにおいて、その技術的優位性が決定的な意味を持つ。政府主導のプロジェクトや国際的な連携において、MHIグループの強力な知財ポートフォリオは、技術標準の形成やパートナーシップの主導権を握る上での強力な武器となる。今後、これらの知財のライセンス供与や、技術プラットフォームとしての提供を通じて、新たな収益機会が飛躍的に拡大する可能性が高い。
産業界全体で、製品を一度販売して終わりにする「モノ売り(売り切り型)」から、製品の稼働を通じてサービスや価値を提供し続ける「コト売り(リカーリング型)」へのビジネスモデル転換が加速している。この潮流は、MHIグループのデジタルイノベーションブランド「ΣSynX」の戦略的重要性を一層高める。ΣSynXは、物理的な機械(モノ)に知能を与え、遠隔監視や最適運用といったサービス(コト)を提供するためのプラットフォームである¹⁰⁷。このビジネスモデルにおいて、競争力の源泉はハードウェアの性能だけでなく、それを制御するソフトウェア、稼働データを解析するAIアルゴリズム、そしてサイバーセキュリティといった無形資産、すなわち知財に移る。顧客が求めるのはガスタービンそのものではなく「安定した電力供給」であり、フォークリフトそのものではなく「効率的な倉庫内物流」である。これらの「成果」を提供するためのソリューションを知財で保護することが、将来の収益基盤を盤石にする上で不可欠となる。ΣSynX関連のソフトウェア特許やビジネスモデル特許の重要性は、今後ますます増大していくだろう。
デジタルツインやシミュレーション技術の進化は、現実世界とサイバー空間を高度に融合させる「インダストリアル・メタバース」の実現を視野に入れている。これは、製品の設計・開発から製造、運用、保守に至る全ライフサイクルを仮想空間上で再現し、最適化を可能にする次世代の産業基盤である。競合であるSiemensは、この分野で既に5,000件以上の特許ファミリーを保有し、先行している⁶⁰。MHIグループも、ΣSynXを通じて機械システムのデジタルツイン化を進めており、この分野での知財ポートフォリオ構築は、将来の産業界における主導権争いを見据えた重要な布石となる。特に、複数の物理モデルを精密に連携させるシミュレーション技術や、現実世界のデータをリアルタイムに反映させるセンシング・通信技術に関する知財は、インダストリアル・メタバース時代における中核的な競争力となる可能性を秘めている。
米中対立の激化やサプライチェーンの分断リスクの高まりを受け、各国で経済安全保障の重要性が叫ばれている。エネルギー、防衛、航空宇宙、半導体といった基幹産業における自国技術の確保と保護は、国家戦略上の最優先課題となっている。この文脈において、MHIグループが長年にわたり蓄積してきた基盤技術と、それを保護する国内の知財ポートフォリオの戦略的価値は、これまで以上に高まる。特に、原子力や防衛といった安全保障に直結する分野の独自技術は、他国への依存を低減し、日本の技術的自立性を担保する上で決定的な役割を果たす。今後、政府との連携が一層強化され、重要技術の流出防止や、国内サプライチェーン強化を目的とした知財戦略の重要性が増していくことが予想される。MHIグループの知財は、一企業の競争資産であると同時に、国家の技術主権を守るための戦略的資産としての側面を強めていくだろう。
これらの展望を踏まえると、MHIグループの知財戦略は、単に既存事業を守るだけでなく、未来の市場を創造し、国家レベルの課題解決に貢献する、よりダイナミックで影響力の大きな役割を担っていくことが期待される。
本分析を通じて明らかになった三菱重工グループ(MHIグループ)の知的財産(知財)戦略の現状と将来展望を踏まえ、経営、研究開発、そして事業化の各観点から、その価値を最大化し、持続的な成長を確実にするための戦略的示唆を以下に提言する。
これらの示唆は、MHIグループが知的財産を経営の中核に据え、そのポテンシャルを最大限に引き出すための具体的なアクション候補である。知財戦略を静的な「計画」から動的な「実行」へと昇華させることが、今後の成長を左右する鍵となるだろう。
本レポートは、三菱重工業グループ(MHIグループ)の知的財産戦略が、同社の事業構造と企業文化の根幹に関わる変革を推進する、極めて重要な戦略的ドライバーであることを明らかにした。その戦略は、もはや単に発明を保護し、法的リスクを管理するという受動的な機能に留まるものではない。むしろ、21世紀の産業界が直面する「脱炭素化」と「デジタル化」という二つの巨大な潮流を乗りこなし、その中で新たな事業機会を創出するための、能動的かつ攻勢的な羅針盤として位置づけられている。
分析の結果、MHIグループの知財戦略の核心は、技術の性質に応じてアプローチを使い分ける、洗練された「デュアル・アプローチ(二正面戦略)」にあると結論付けられる。一方では、CCUS技術に代表される、競争優位が確立された領域において、他社の追随を許さない堅牢な「パテント・フォートレス(特許の砦)」を築き、技術的リーダーシップを盤石にすると同時に、ライセンス事業という新たな収益源の確立を目指している。もう一方では、「ΣSynX」を核とするデジタルソリューションの領域において、自社の知財をプラットフォームの中核に据えつつも、他社技術を積極的に取り込むオープンな「エコシステム」の形成を志向している。この硬軟織り交ぜた戦略は、成熟市場での収益最大化と、未来の不確実な市場での主導権獲得を同時に追求する、高度な戦略的思考の表れである。
この野心的な戦略の成功は、グローバルな競合との熾烈な競争、オープンイノベーションに伴うリスク管理、そして高度専門人材の確保といった数々の課題を克服できるかにかかっている。経営層が知財の価値を非財務KPIとして経営に組み込み、研究開発部門がデータに基づき未来の技術領域を知財で先取りし、そして事業部門が知財を武器として市場を開拓していく。この三位一体の活動を全社的に、かつ継続的に実行していくことが、MHIグループが描く未来像を実現するための絶対条件となるだろう。知的財産は、もはやコストセンターではなく、未来の企業価値を創造するプロフィットセンターなのである。その認識と実践の深度が、今後のMHIグループの成長角度を決定づける最重要因子となることは間違いない。
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