3行まとめ
特許戦略を「量」から「質」へ転換、国内出願は90%以上削減
2020年頃から戦略を転換し、国内特許出願は2021年の678件から2023年に50件へと90%以上激減。一方で国際出願(PCT)は年間400件超の高水準を維持し、リソースをグローバルな「質」に集中させている。
中核技術は「クローズ」、IoT基盤は「オープン」のハイブリッド戦略
CNC等の中核技術は自前主義の「クローズ戦略」で守る一方、IoTプラットフォーム「FIELD system」では500社以上のパートナーが参加する「オープン戦略」を推進し、エコシステムを構築している。
R&Dと知財部門が「隣接」する組織体制でAI分野のIPを強化
社長直属の研究統括本部に知財部門と研究所が「隣接」して配置され、「特許なしの開発はなし」という文化を醸成。結果、AI関連発明では国内12位にランクインするなど、重点分野のIPを強化している。
この記事の内容
本レポートは、ファクトリーオートメーション(FA)の巨人、ファナック株式会社(以下、ファナック)の知的財産(IP)戦略について、一次情報に基づき網羅的に分析するものです。同社の戦略は、2020年頃を明確な転換点としており、それ以前の「量」を追求するモデルから、事業貢献度を最重視する「質」への戦略的ピボット(方針転換)が確認されます。
本分析から得られた主要な結論は以下の通りです。
ファナックの知的財産戦略は、同社の事業構造と企業文化に深く根差しています。同社は「FA(ファクトリーオートメーション)」「ロボット」「ロボマシン」の三事業本部を核とし、それらをサービスが一体となって支える「One FANUC」体制を敷いています。その根底にあるのは、基幹部品であるCNC(コンピュータ数値制御装置)、サーボモータ、アンプから、それらを応用した産業用ロボット、ロボドリル(小型切削加工機)に至るまで、主要コンポーネントを徹底して自社開発・内製化する「垂直統合」モデルです。また、「生涯保守」を標榜し、製品が顧客の工場で稼働し続ける限りサポートを提供するというビジネスモデルは、製品の信頼性と長期的な顧客関係を最重要視する姿勢の表れです。
このような徹底した自前主義とクローズドな技術文化は、長らくファナックの圧倒的な競争力の源泉となってきました。この企業文化を背景に、同社の公式な知的財産(IP)基本方針は、一見すると多くの製造業と同様に、コンプライアンスと防御(ディフェンシブ)の側面を強調しています。
ファナックのサステナビリティ・ガバナンスに関する公式ウェブページでは、知的財産活動の二つの柱が明記されています。第一は「他社特許の徹底調査」です¹ ³²。これは、自社製品が他社の権利を侵害することを未然に防止するため、全社を挙げて他社特許調査を徹底的に実行するというものです。第二は「社員への知財教育」です¹ ³²。毎年、全社員を対象に各種の知財教育を実施し、商品の開発段階から販売段階に至るまで、あらゆるプロセスにおいて他社の権利侵害防止と、自社技術・ブランドの権利取得を意識した研究開発を推進・支援するとしています¹ ³²。
これらの方針は、知財リスクを最小化し、事業の自由度(Freedom to Operate)を確保するための、堅実かつ不可欠な防御的活動を示しています。しかし、ファナックの知財戦略の真髄は、この防御的側面に留まりません。むしろ、その本質は、知財を事業創出と競争優位の源泉として活用する、極めて攻撃的(オフェンシブ)な側面にあります。
この攻撃的側面が公に示されたのが、2019年(平成31年)4月に発表された「知財功労賞」経済産業大臣賞の受賞です⁵。特筆すべきは、ファナックが「知的財産権制度活用優良企業(オープンイノベーション推進企業)」として表彰された点です 1。この受賞は、単なる特許出願件数の多さや訴訟での勝利を評価されたものではなく、同社が推進するオープン・イノベーション戦略と、それを支える知財戦略が一体となって新規事業の創出を加速した点を評価されたものです⁵。
経済産業省 特許庁が挙げた受賞のポイントは、ファナックのIP戦略の二元性を明確に示しています 1。
第一に、全社的なオープンイノベーションの推進体制です。ファナックは、伝統的な自前主義(クローズド戦略)とは一線を画し、「異業種やベンチャー企業と共同研究開発等を積極的に行い」、製造業向けIoT(モノのインターネット)プラットフォームである「FIELD system」や「FANUC AI」といった新規事業の創出を加速させる方針を採用しました⁵。これは単なるスローガンではなく、「オープンイノベーションを推進する組織とその担当役員を設け」、さらには「協業先から役員や担当者を受け入れて、連携を加速させている」⁵という、具体的な組織体制とリソース投下を伴うものでした。
第二に、このオープン戦略を支える知財活動です。ファナックは「『特許なしの開発はなし』をスローガンに」、事業部と特許部が定期的に「特許検討会議」を開催し、戦略的な出願を速やかにできる体制を構築していると評価されました⁵ 1。これは、開発プロセスそのものに知財活動が不可分に組み込まれていることを示しています。
これらの背景から、ファナックの知財戦略の基本方針は、二つの異なる、しかし相互補完的な要素から成り立っていると分析できます。一つは、公式に謳われる「他社権利の尊重と侵害防止」¹という、事業継続のための防御的コンプライアンス。もう一つは、2019年の受賞理由に象徴される「オープン・イノベーションと連動した事業創出」⁵ 1という、未来の成長を牽引するための攻撃的戦略です。
ファナックの知財戦略を理解する上では、この二元的な構造——すなわち、伝統的なコア技術を守る「クローズドな側面」と、FIELD systemに代表されるエコシステムを拡大するための「オープンな側面」——が並立している点を認識することが不可欠です。2019年の受賞は、同社がこの二元的な戦略、特にオープン・イノベーションという新たな挑戦に、組織全体でコミットしていることを示すマイルストーンであったと言えるでしょう。
ファナックの知的財産戦略は、そのユニークな組織体制によって強力に実行されています。同社のIPガバナンスとR&Dプロセスの融合は、単なる部門間連携のレベルを超え、組織設計の思想そのものに組み込まれています。
第一に、知財部門の経営上の位置づけが極めて戦略的です。2017年時点の日本知的財産協会の資料によれば、ファナックにおいて特許、意匠、商標に関する知財業務全般を担う「特許部」は、法務部や管理本部の傘下ではなく、「社長直属の研究統括本部」に所属しています⁶¹。この組織設計は、ファナックが知的財産を、事業運営に伴う法務リスク管理(リーガルマター)や、ライセンス収益管理(ファイナンスマター)としてではなく、研究開発プロセスそのものと不可分な「技術マター(テクノロジーマター)」として最重要視していることの強力な証左です。
経営トップ(社長)直属の研究開発部門の内部に知財機能が組み込まれていることで、IP戦略は経営戦略およびR&D戦略とダイレクトに連動します。これが、「特許なしの開発はなし」⁵ 1というスローガンが単なる標語で終わらず、組織文化として機能する理由であると推察されます。IP部門のミッションは、R&Dの成果を法的に保護するという受動的なものではなく、R&Dの方向性を定め、その成果(=未来の事業)を最大化するという能動的な役割を担っていると考えられます。
第二に、この組織的な一体性をさらに強固にしているのが、R&D部門と知財部門の「物理的な融合」です。ファナックの特許部は、本社(山梨県忍野村)の広大な敷地内において、中核となる各「研究所」と物理的に「隣接」して配置されています⁶¹。この物理的近接性は、偶発的なものではなく、発明者である研究者が、自らのアイデアを知財担当者に「手軽に相談できる環境」を意図的に創出するための戦略的な組織デザインです⁶¹。
研究開発の現場において、発明の発掘を妨げる最大の障壁の一つは、発明者(研究者)と知財担当者の間のコミュニケーション・ギャップ(心理的・物理的距離)です。多くの企業では、R&D拠点が地方に、知財・法務部門が本社(都市部)に分離しているケースも少なくありません。ファナックの「隣接」モデルは、この障壁(フリクション)を構造的に最小化します。研究者は、アイデアの着想段階で、あるいは実験データが出た直後に、文字通り「隣の部署」である特許部を訪れ、専門家と議論することができます。
第三に、この物理的融合を機能させるための「人的な融合」メカニズムが導入されています。ファナックでは、各研究所に専門の「特許番」が配置されています⁶¹。「特許番」は、特許部のスタッフでありながら各研究所に深く入り込み、その研究所固有の技術開発動向を把握し、知財の発掘と運用の「窓口」として機能します⁶¹。
この「特許番」という組み込み型(Embedded)の専門家の存在は、極めて重要です。彼らは、研究者の「技術言語」と、特許明細書に必要な「特許言語(法律言語)」との間の「翻訳者」として日常的に機能します。これにより、高度な技術的アイデアが特許性の判断ミスや権利範囲の狭さによって取りこぼされることを防ぎ、発明の質を最大化する高効率なIP創出フローが確立されていると推察されます。研究所と特許部が「隣接」し⁶¹、かつ「特許番」という人的な結節点が存在することで、アイデアの着想から出願判断までのリードタイムが劇的に短縮され、戦略的な出願⁵が可能になると考えられます。
近年、ファナックはこうした強力な組織基盤の上で、IPマネジメント・ツールの高度化を進めています。これは、後述する「量から質」への戦略転換を実行・管理するための基盤整備であると見られます。
2023年5月、当時の特許庁長官がファナックを訪問し、同社経営陣と意見交換を行いました³³。この際、ファナック側から、同社の知財活動に関する二つの重要な取り組みが紹介されています。一つは、「製品や開発目標と特許出願の関係を見える化」し、戦略的な出願を推進している点です³³。二つ目は、社員のレベルに応じた「知財教育用動画を研究開発部門向けにオンデンドで配信」し、人材育成に熱心に取り組んでいる点です³³。
これらの取り組み、特に「見える化」は、2020年頃から始まった「質」重視の戦略⁴を支える具体的な実行ツールである可能性が極めて高いです。「質」を重視する上で最大の課題は、「質の定義と測定」です。「製品や開発目標と特許出願の関係を見える化」³³するシステムは、個々の特許(出願)が、どの製品ロードマップに紐づき、どの程度の事業貢献が期待されるのか(あるいは、どの競合技術をブロックするのか)を評価・追跡するための「発明の評価基準」⁴そのもの、あるいはそれを支援するIPランドスケープ・ダッシュボードであると推察されます。
この「見える化」ツールによって、IP部門(特許部)とR&D部門(研究所)は、「質の高い特許」という共通の目標に向かってリソースを配分することが可能になります。また、オンデマンドの教育動画³³は、「特許に慣れていない社員も多かった」⁴という過去の課題を克服し、組織全体の知財リテラシーを底上げし、「量」重視のフェーズで醸成したIPマインドセット⁵を、さらに高度な「質」重視のマインドセットへと引き上げる役割を担っていると考えられます。
ファナックの知的財産戦略において、最も重要かつ劇的な変化は、2020年頃を境に発生した「量から質」への戦略的ピボットです。この転換は、同社のIPポートフォリオの構成と、それを生み出すR&Dプロセスの双方に根本的な変革をもたらしたと見られます。
2010年代の大部分、ファナックは特許出願の「件数を増やすこと」に注力していました⁴ 4。この方針は、2012年から2019年にかけて推進されたと報じられています⁴ 4。
この「量」を重視した背景について、同社の研究開発推進本部 知的財産部長(当時)である松本要氏は、日経クロステック(2025年6月27日付、4より引用)の取材に対し、「当時は特許に慣れていない社員も多かった」⁴ 4という事情があったと説明しています。このコメントは、R&D部門全体に特許出願のプロセスを経験させ、知財マインドセット(「特許なしの開発はなし」⁵)を組織文化として強制的に根付かせるための、意図的な戦略フェーズであった可能性を示唆しています。
この戦略を実行するため、同社は強力なインセンティブ施策を導入しました。具体的には、研究開発部門の社員に対して「1人当たりの出願ノルマ」を課したり、「部署間で件数を競争」させたりといった工夫が取り入れられました⁴ 4。これらの施策は、発明の発掘と出願プロセスへの参加を強力に動機づけ、結果として特許出願件数の大幅な増加に寄与したと推察されます。
しかし、この「量」を追求する戦略は、必然的に副作用を伴いました。出願件数が増加する一方で、その「質」に関する課題が浮き彫りになります。松本氏(当時)は、蓋を開けてみると「実際には実施していない特許も多く出願している状況だった」⁴ 4と、当時の課題を振り返っています。
「実施していない特許」の増加は、複数の経営的非効率を生み出します。第一に、出願・権利維持にかかる直接的なコスト(弁理士費用、特許庁印紙代、各国への翻訳・維持年金)が無駄になります。第二に、知財部門(特許部)のリソースが、重要度の低い発明の明細書作成・中間処理に割かれ、真に重要な発明(事業貢献度の高い発明)の戦略的な権利化に集中できなくなります。第三に、R&D部門の評価が「件数」に偏ることで、小粒な改善発明が量産され、破壊的なイノベーションの追求が疎かになるリスクもあります。
これらの「量」追求の弊害を受け、ファナックは2020年頃から、明確に「特許の質向上を重視する方針」へと舵を切りました⁴ 4。「量」の時代が、組織にIPマインドセットを植え付けるための「フェーズ1(文化醸成期)」であったとすれば、この「質」への転換は、次のステップである「フェーズ2(戦略的活用期)」への移行を意味します。
この新方針の目的は、「事業への貢献度がより高い特許を増やす」⁴ 4ことです。そのために、二つの主要な施策が実行されました。第一に、「発明の評価基準を社内であらためて整備」⁴ 4すること。第二に、「よりグローバルな特許出願を目指している」⁴ 4ことです。
この「質」重視の新方針は、単なるスローガンではなく、定量的なデータによって裏付けられる、既に実行済みの「戦略的決断」です。
「量から質」への転換は、ファナックの国内特許出願件数の推移に最も顕著に表れています。この点に関して、異なるデータベース(出願日ベースと公開日ベース)の数値が存在しますが、それらは矛盾するものではなく、むしろ戦略転換の実行を相互に補完し、裏付ける強力な証拠となっています。
【テーブル1】 ファナックの国内特許出願動向(データソース比較)
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データソース |
指標 |
2021年 |
2022年 |
2023年 |
2024年 |
分析・注記 |
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Patent-i 2 |
出願件数 (年) |
678 件 |
216 件 |
50 件 |
- |
2021年をピークに、2023年にかけて90%以上の劇的な減少。出願日ベースと推察され、戦略転換の実行を最もシャープに反映しています。 |
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IPForce 3 |
公開件数 (年) |
- |
- |
29 件 |
30 件 |
公開日ベース(出願から通常18ヶ月後)。2023年・2024年の公開件数が極めて低いことは、2021年後半~2022年の出願が激減したことを示しており、2のデータと整合的です。 |
出所:2、3のデータを基にアナリスト作成
このテーブルが示す事実は衝撃的です。Patent-iのデータ(2、出願日ベースと推察)によれば、ファナックの国内出願は2021年に678件のピーク(あるいは新基準適用前の「駆け込み出願」の可能性)を記録した後、2022年に216件(前年比-68.1%)、2023年にはわずか50件(同-76.9%)へと、わずか2年で92.6%も減少しています²。
この減少は、IPForceのデータ(3、公開日ベース)によっても裏付けられます。特許出願は出願から18ヶ月後に「公開」されるため、2023年・2024年の公開件数(各29件、30件)¹⁵は、主に2021年後半から2022年にかけて出願された特許を反映しています。この公開件数の低水準は、2が示す出願件数の急減と完全に整合します。
これは、景気後退やR&D予算の削減による自然減とは到底説明がつかない、意図的な戦略的リソースシフトの結果です。「質」を重視する新しい「発明の評価基準」⁴が、強力なフィルターとして機能し、「実際には実施していない特許」⁴や、事業貢献度の低い国内市場のみを対象とした小規模な改善発明の出願が、徹底的にスクリーニングされた結果であると断定できます。
では、ファナックは特許出願全体を削減したのでしょうか。答えは明確に「否」です。国内出願の「量」を劇的に削減する一方で、グローバルな権利確保の「質」は維持、むしろ強化しています。
WIPO(世界知的所有権機関)が2025年3月に発行した「Patent Cooperation Treaty (PCT) Yearly Review 2025」によれば、ファナック(FANUC CORPORATION)のPCT(国際特許出願)の公開件数は、2021年: 484件、2022年: 398件、2023年: 466件と報告されています¹⁶。
国内出願が同期間に90%以上消滅(2)したのとは対照的に、PCT出願は年間400件を超える高水準で安定、2023年にはむしろ回復しています¹⁶。
この国内出願(2)と国際出願(17)の劇的な対比こそが、ファナックの「量から質」への戦略転換の核心です。すなわち、彼らの戦略は「特許出願の削減(コストカット)」ではなく、「特許リソースの戦略的再配分(選択と集中)」なのです。
国際出願(PCT)およびその後の各国移行(特に米国、欧州、中国)は、国内出願に比べて桁違いのコスト(翻訳費用、現地代理人費用、各国年金)が発生します。ファナックの経営陣は、「実施していない」可能性の高い国内出願の「量」に投下していたリソース(予算と人員)を削減し、それを「よりグローバルな特許出願を目指す」⁴という方針のもと、真に事業貢献度が高く、グローバル市場で競合をブロックできる重要な発明の「質」に集中投下するという、明確な経営判断を下したのです。
なお、米国の特許許可件数に関する一部データ(例:Harrity 300リストにおける2023年の米国特許許可件数が154件で前年比43%減³⁶)は、この分析と矛盾しません。特許は出願から許可までに数年を要するため、2023年の「許可」件数は、主に「質」への転換期(2020年頃)に「出願」された特許の審査結果を反映する「遅行指標」です。むしろ、審査が厳格化する米国において、質重視の戦略(2020年〜)が反映された出願が審査段階に進む今後数年間(2025年以降)の許可率(Grant Rate)と権利範囲の広さが、この戦略の成否を示す重要な先行指標となると考えられます。
「量から質」への戦略的転換⁴は、ファナックの技術ポートフォリオ全体、特に成長を牽引するAI(人工知能)とロボティクス分野において、どのようなIP戦略として具体化されているのでしょうか。分析の結果、同社は伝統的な強みを維持しつつ、新興分野において「質」重視の戦略⁴に沿った、極めて的を絞ったIP構築を進めていることが明らかになりました。
ファナックの事業基盤は、NC(数値制御)装置と産業用ロボットにあります⁴。特に、日経クロステック(4より引用)の調査によれば、「工作機械」関連分野は、同社が日本国内で長年にわたり最も多くの特許を出願している領域の一つです⁴³。これは、同社の競争力の源泉であるコア技術(CNC、サーボ制御、ロボマシン)であり、知財戦略上、最も強固な「特許の壁」を築いてきた基盤(コアIP)領域であることは間違いありません。
しかし、「量から質」への転換⁴に伴い、この伝統領域においても、単なる改善特許ではなく、真に競合他社の参入を阻む、あるいは自社製品の優位性を決定づける「キラー特許」の創出にリソースが集中されているものと推察されます。
近年のファナックIP戦略において、最も注目すべき分野がAI(人工知能)・機械学習です。ファナックは、AIを単なるバズワードではなく、製造現場の自動化を次のレベルに引き上げるための実用的なツールとして位置づけ、そのIPポートフォリオ構築を強力に推進しています。
その本気度は、客観的なデータにも表れています。日本特許庁(JPO)が実施した調査(2023年6月までの公開分を対象)によれば、ファナックは「AI関連発明」の出願人ランキング(2014年以降の出願)において、426件で国内第12位にランクインしています⁵⁵。さらに、その中でも特に「ディープラーニング(深層学習)を参照する発明」のランキングにおいても、259件で同じく国内第12位となっています⁵⁵。
これは、Google(8位)、Baidu(11位)⁵⁵といったグローバルなAIプラットフォーマーや、NTT(2位)、富士通(1位)、NEC(5位)⁵⁵といった日本の大手IT・通信企業と肩を並べる、ハードウェア(製造装置)メーカーとしては異例の高い順位です。
ファナックのAI特許戦略の最大の特徴は、その「集中性」にあります。彼らは、GoogleやBaidu(18)のような「基盤モデルAI(Foundational AI)」そのものの開発競争を追うのではなく、自社のコア製品(FA、ロボット、ロボマシン)の性能と付加価値を直接的に向上させるための「応用的AI(Applied AI)」にIPリソースを徹底的に集中させていると分析されます。
その具体的な応用例は、2019年の知財功労賞の受賞理由⁵にも表れています。当時すでに、ファナックはベンチャー企業との協業により、「AIサーボチューニング技術」や「AI熱変位補正技術」といった、工作機械やロボットの「匠の技」をAIで代替・最適化する技術を開発し、製品に実装していました⁵ 1。
近年の特許出願・許可情報からも、この「応用的AI」戦略は一貫して継続・強化されています。
AIと並ぶもう一つの重点分野は、ロボティクス、特に近年市場が急拡大している「協働ロボット」です。ファナックは、緑色の外観が特徴的な「CRシリーズ」「CRXシリーズ」といった協働ロボットのラインナップを積極的に拡充しており、従来の自動車産業などに加え、人手不足に悩む物流や食品、医薬品産業など、「人が働くライン」への導入を推進しています³。
協働ロボット市場は、従来の産業用ロボット市場とは異なり、安全性(人と接触した際に安全に停止する機能)、簡易な操作性(ダイレクトティーチングや直感的なプログラミング)といった、新しい技術的課題がIPの主戦場となります。
ファナックがこの新興市場において、「量から質」の戦略⁴をいかに実行しているかは、グローバルな権利化の動向、特に世界最大の市場である米国(USPTO)での特許取得状況に表れています。
これらの特許(出願)は、ファナックが協働ロボット³という高成長市場に対し、ピンポイントでグローバルな権利(USPTO)を確保し、新製品・高成長事業をIPで護るという「質」重視の戦略⁴ 4を、R&D(19)とIP部門(20)が一体となって実行していることを象徴しています。
ロボット工学の核心的な特許分類である「B25J(マニピュレータ)」⁵² ⁵³は、引き続きファナックの主要出願分野であり続けますが、その中身は、AI(G06N等)⁵⁵や、協働ロボット特有の安全・教示技術へと、戦略的にシフト・強化されていると結論付けられます。
ファナックの知財戦略を分析する上で、「量から質」への転換⁴と並んで最も重要なのが、「オープン・イノベーション」への対応です。これは、伝統的に徹底した自前主義と「クローズド」な垂直統合モデルで成長してきた同社にとって、根本的な戦略の転換を意味します。
この戦略の中核を成すのが、製造業向けIoTプラットフォーム「FIELD system(FANUC Intelligent Edge Link and Drive system)」です。ファナックは、FIELD systemを「製造業向けのオープンなIoTプラットフォーム」として構想し、開発しました⁵ 1。
このプラットフォーム戦略は、ファナック単独ではなく、「ベンチャー企業等と共同で開発」⁵ 1され、運用が開始されました。2019年の「知財功労賞」受賞時点(1)で、すでに「500社以上の企業がパートナーとして参加」⁵ 1していると報告されており、これはファナックが自社製品(CNC、ロボット)の圧倒的なインストールベース(市場シェア)を基盤に、巨大な「エコシステム」の構築に成功しつつあることを示しています。
このエコシステム戦略は、必然的に、従来の自前主義(クローズド戦略)とは全く異なる、複雑なIPマネジメントの課題を生み出します。500社のパートナー(アプリケーション開発企業、センサー・機器メーカー、システムインテグレーターなど)がプラットフォーム上で協業するということは、技術やデータが交錯し、誰が発明したのか、権利は誰に帰属するのか、という問題が日常的に発生することを意味します。
ファナックの知財部門自身も、この変化を明確に認識しています。2019年の受賞理由(1)では、「他社との共同出願契約やライセンス契約が増加する中」⁵ 1と、IP取引の形態が変化していることが明記されています。さらに、それ以前の2017年時点の日本知的財産協会の資料(5)においても、特許部は今後の課題として「IoT、AIなど今後の新しい潮流に沿った知財に対応」⁶¹することと並び、「オープン・クローズ戦略」⁶¹を明示的にリストアップしています。
この「オープン・クローズ戦略」⁶¹こそが、現代のファナックの知財戦略を読み解く鍵です。すなわち、同社の戦略はモノリシック(一枚岩)ではありません。
ファナックの戦略は、自社のコアIP(ハードウェア制御等)は「クローズ」に保ちつつ、その上のアプリケーション・データ層(FIELD system)を「オープン」にすることで、パートナーの力を最大限に利用し、自社プラットフォームのネットワーク効果を最大化するという、計算された「ハイブリッド戦略」であると推察されます。
このハイブリッド戦略の実行において、IPガバナンスが極めて重要な役割を果たします。エコシステム戦略の成否は、「いかに多くの有力なパートナー(1)を惹きつけ、エコシステム内に留めておけるか」にかかっています。
パートナーにとって、プラットフォーム参加の最大の懸念は、「自社が開発した独自の技術やノウハウ、アプリケーションのIPが、プラットフォーマー(ファナック)に不当に奪われるのではないか」という点です。もしファナックが、共同開発の成果やプラットフォーム上で生み出されたIPに対して、自社の権利のみを主張するような強圧的な(あるいは曖昧な)態度をとれば、パートナーはファナックのプラットフォームを信頼しなくなり、エコシステムから離反してしまうでしょう。
したがって、ファナックが掲げるIPガバナンス方針である「お互いの利益が損なわれないよう、相手の立場に十分配慮したバランスの取れた対応を推進している」⁵ 1 ⁶¹という一文は、単なる法務的な配慮やスローガンではなく、FIELD systemエコシステムを維持・成長させるための、極めて重要な「戦略的ガバナンス・ポリシー」であると分析できます。
この「バランスの取れた対応」⁵ 1は、パートナーの参入インセンティブを担保し、「ファナックのエコシステムに参加すれば、自社のIPも尊重され、公正な利益配分が得られる」という信頼感を醸成するための必須条件なのです。
もちろん、ファナックは自社の利益確保にも万全を期しています。2019年の受賞理由(1)は、この「バランス」のもう一方の側面にも言及しています。「他社との協業の成果は、重要案件であるため、知財を確実に権利化できるように総力を挙げて対応している」⁵ 1。これは、協業によって生み出された重要な発明(特に、FIELD systemの基盤に関わるものや、AIサーボチューニング⁵ 1のような核心的応用技術)については、共同出願契約などを通じて、ファナックとしての権利(実施権または共有持分)を確実に確保する、という強い意志の表れです。
このオープン・イノベーション戦略(1)は、IP部門(特許部)の役割そのものを変容させていると推察されます。「共同出願契約やライセンス契約が増加」⁵ ⁶¹している状況は、特許部の日常業務が、従来の「特許明細書の作成」や「中間処理(拒絶理由通知への応答)」といった伝統的な業務から、「パートナー企業の法務・知財部との複雑な契約交渉」や「エコシステム全体のIPアーキテクチャ設計」へとシフトしていることを示唆しています。
ファナックのIP部門は、今や単なる「権利化部隊」ではなく、FIELD systemというエコシステムのルールを設計・運用し、パートナーとの「ディール(取引)」をまとめる、「知財アーキテクト」および「ビジネス・ネゴシエーター(交渉人)」としての高度な機能を求められていると言えるでしょう。
ファナックの知財戦略——すなわち、R&D-IPの組織的融合⁶¹、「量から質」へのリソース集中⁴、そして「オープン/クローズ」のハイブリッド型エコシステム⁵——の独自性は、グローバルなFA・ロボティクス市場における主要競合他社との比較によって、より鮮明に浮かび上がります。
本章では、ファナック(日本)を基軸に、主要な競合である安川電機(日本)、ABB(スイス)、Siemens(ドイツ)、そしてKUKA(ドイツ/中国・Midea傘下)の各社の知財・R&D戦略を比較分析します。
【テーブル2】 ファナック vs 主要競合:知財・R&D戦略比較
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比較軸 |
ファナック (FANUC) |
安川電機 (Yaskawa) |
ABB (スイス) |
Siemens (ドイツ) |
KUKA (独/Midea) |
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知財戦略の核 |
ハイブリッド型: 「クローズド」なコア技術(FA)と「オープン」なプラットフォーム(FIELD)。「量から質」への転換。 [1, 4, 5] |
標準化戦略: 自社技術「MECHATROLINK」をIEC(国際標準規格)として推進し、デファクトスタンダード化。 6 |
R&D投資とAI: 売上比4.5%超の巨額R&D投資。AIとデジタル・パートナーシップを重視。 [7, 8] |
ソフトウェア・エコシステム戦略: 「Digital Twin」「PLM (Teamcenter)」を核としたソフトウェア・プラットフォームによる顧客の囲い込み。 [9, 10, 11] |
独立IP保護: 親会社Midea(22)傘下で、独立したIP戦略を維持。「iiQKA.OS」等の自社技術を特許・商標で保護。 12 |
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R&D/知財体制 |
R&Dと一体: 知財(特許部)がR&D統括本部内⁶¹にあり、研究所に「隣接」⁶¹。 |
R&Dと一体: 知財部門が安川テクノロジーセンタ(R&D拠点)内にあり、「密着した活動」を推進。 13 |
大規模R&D組織: 約7,800人のR&D従業員¹⁷。各事業部がイノベーションを主導。 7 |
Digital Industries部門: 「Digital Industries」部門がソフトウェア/自動化のR&Dを強力に牽引。 9 |
独立したR&D: Midea傘下で独立したR&D・IP体制を維持。 12 |
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R&D投資(参考) |
(非開示) |
(非開示) |
> 14億ドル (2024年、売上比4.5%) 7 ¹⁷ |
(非開示、ただしR&D/売上比は2023年で8%) 9 |
(Mideaグループ全体で巨額投資) 22 |
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特許動向(参考) |
PCT出願(2023): 466件¹⁶ / 米国許可(2023): 154件³⁶ / 日本公開(2024): 30件¹⁵ |
(非開示) |
保有特許: 約22,000件。優先権出願(2024): >750件。 7 ¹⁷ |
(非開示。Digital Twin/PLM関連で強力なポートフォリオを形成) 11 |
新規出願(2021): 314件。 12 |
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エコシステム戦略 |
FIELD system (>500パートナー) ⁵ |
i³-Mechatronics (ソリューションコンセプト) 14 |
デジタルパートナーシップのエコシステム 7 |
Siemens Xcelerator (デジタルプラットフォーム) ⁵⁶ |
iiQKA.OS (新OS/エコシステム) 12 |
出所:各社公開資料(1)を基にアナリスト作成
この比較テーブルから、FA・ロボティクス市場における知財戦略の多様性と、ファナックの特異なポジショニングが明らかになります。
ファナックと安川電機は、日本型の「R&D-IP一体化」という「組織論」において著しい類似性を示しています。ファナックが知財(特許部)をR&D拠点(研究所)に「隣接」⁶¹させているのと同様に、安川電機も知財部門をR&D機能を集約した「安川テクノロジーセンタ」内に配置し、「技術開発部門と密着した活動」 13を推進しています。
しかし、両社は「戦略論」において明確に分岐します。安川電機は、自社開発のモーション制御ネットワーク「MECHATROLINK」を、積極的に国際標準規格(IEC 61158、IEC 61784など) 6として登録させる「標準化戦略」 6を推進しています。これは、MECHATROLINKをオープンな「標準(インフラ)」として普及させ、対応機器市場(サードパーティ製品を含む)全体を拡大させることで、自社のコア製品(サーボ、インバータ)の優位性を確立する戦略です。
対照的に、ファナックは「FIELD system」⁵という、あくまで自社が管理する「プラットフォーム(エコシステム)」を構築しています。FIELD systemは「オープン」⁵であると謳いつつも、その基盤はファナックの管理下にあり、パートナーはファナックのエコシステムに「参加」する形をとります。安川電機が「インフラ(標準)」の主導権を握ろうとするのに対し、ファナックは「プラットフォーム(城郭)」の城主であろうとする点で、アプローチが異なります。
ABBの戦略は、その圧倒的な「規模(スケール)」によって特徴づけられます。2024年のABB統合報告書(Integrated Report 2024)によれば、同社はR&Dに従業員約7,800人を擁し、年間14億ドル超(売上比4.5%) 7 ¹⁷という巨額の投資を行っています。この投資規模は、ABBの知財戦略が「物量」に支えられていることを示しています。
2024年には750件以上の優先権出願、約2,000件の二次出願を行い、約22,000件の許可特許を保有 7 ¹⁷しています。イノベーションの焦点として「人工知能(AI)」や「デジタルパートナーシップのエコシステム」 7を挙げる点はファナックと共通しますが、ファナックが国内出願を90%以上削減(2)して「選択と集中」⁴を進めるのとは対照的に、ABBは全方位的な物量投資によってイノベーションを推進していると推察されます。
FA市場における最大の戦略的異質性は、Siemensとの比較に表れます。Siemensは、もはやファナックやABBと同じ「ハードウェア企業」の土俵では戦っていません。彼らは「ソフトウェア・エコシステム企業」へと変貌を遂げています。
Siemensの戦略の核は、「Digital Industries」部門 9が提供する「Digital Twin(デジタルツイン)」⁵⁶と、それを実現するPLM(Product Lifecycle Management)ソフトウェア群(Teamcenterなど)⁵⁷ ⁵⁸です。彼らのアプローチは、工場の「設計・シミュレーション(デジタル)」段階を自社のソフトウェア・プラットフォーム(Siemens Xcelerator)⁵⁶で支配し、そこで作成されたデジタルツインのデータを、実行段階の自動化機器(フィジカル)に流し込むという、トップダウン型のものです。顧客は一度Siemensのソフトウェア・エコシステム(11)に取り込まれると、そのデータ形式やワークフローにロックインされます。
これに対し、ファナックの「FIELD system」⁵は、あくまで「現場(ハードウェア)」、すなわち既存の膨大なCNCやロボットからデータを収集・活用するという、ボトムアップ型のエコシステムです。市場での覇権争いは、Siemensの「設計(ソフトウェア)起点」のトップダウン型エコシステムと、ファナックの「現場(ハードウェア)起点」のボトムアップ型エコシステムが、工場のどのプロセス(設計か、現場か)の主導権を握るか、という構図になっています。
KUKAは、2016年以降、中国の家電大手Midea(美的集団) 22の傘下にあります。しかし、2021年の年次報告書(Annual Report 2021) 12によれば、KUKAは「その知的財産を保護するための独立した戦略(an independent strategy to safeguard its intellectual property)」 12を維持しています。
KUKAは、独自のOS(オペレーティングシステム)である「iiQKA.OS」 12の開発・保護に注力しており、これを核とした独自のエコシステム構築を目指しています 12。ファナックにとってのKUKAは、Mideaの巨大な資本力と、Mideaの支援による中国市場への強力なアクセス 12を背景に持つ、油断のできない競合であると位置づけられます。
この競合比較から明らかなように、ファナックは、ABBの「R&D投資額」(8)やSiemensの「ソフトウェア支配力」(11)で正面から戦うことを意図的に避けているように見えます。
ファナックの戦略は「非対称(Asymmetric)」です。彼らが選択した武器は、
これは、日本企業(ファナック、安川)がR&D-IPの「組織的連携」(5)を強みとするのに対し、欧州企業(ABB、Siemens)が「R&D投資規模」(8)や「M&Aによるソフトウェア・エコシステムの構築」(11)を強みとする、経営哲学の違いを反映しています。ファナックは、自社の強み(組織効率、現場シェア)を最大化し、競合の強み(投資規模、ソフトウェア)とは異なる土俵で戦う、極めて計算された戦略を追求していると結論付けられます。
ファナックの知財戦略は、R&D-IPの強力な組織的連携⁶¹と、「量から質」への明確な転換⁴、そして「オープン/クローズ」ハイブリッド⁵ ⁶¹という高度な設計に基づいています。しかし、この戦略は実行と維持において、短期・中期・長期のそれぞれで重大なリスクと課題を内包しています。
最大の短期リスクは、技術的なものではなく、「組織文化」の変革に伴う内部的なストレスであると推察されます。
ファナックは2012年から2019年にかけて、約8年間にわたり「量」を重視する戦略(例:「1人当たりの出願ノルマ」「部署間での件数競争」⁴ 4)を推進してきました。このアプローチは、R&D部門の発明者やマネージャーにとって、KPI(重要業績評価指標)が「出願件数」という明確な数値で示されるため、理解しやすく、実行しやすいものでした。
しかし、2020年頃からの方針転換⁴により、評価基準は「量」から「質」(=「事業への貢献度」「グローバルな出願」⁴ 4)へと変更されました。「質」という基準は、本質的に曖昧さを含みます。この新しい評価基準(4)が、現場の発明者に対してどれだけ透明性をもって、公平に運用されているかは、戦略転換の成否を分ける極めて重要な要素です。
もし、この「発明の評価基準」⁴ 4が曖昧なまま、あるいはIP部門(特許部)の「ブラックボックス」として運用されている場合、R&D部門の現場では以下のような短期的な混乱が生じる可能性があります。
この組織的なストレスを克服し、チェンジマネジメント(文化変革)を完遂させることが、短期的な最大の課題です。2023年に言及された「製品や開発目標と特許出願の関係を見える化」³³するシステムや、「レベル別知財教育用動画」³³の配信は、まさにこの課題(=「質の基準」の透明化・教育)に対応するために導入された施策であると見られますが、その組織的な浸透度が鍵となります。
中期的には、「FIELD system」⁵に代表されるオープン・イノベーション戦略がもたらすIPマネジメントの複雑化が、最大のリスクとなります。
ファナックは、500社を超えるパートナー⁵と共にエコシステムを運営しており、「共同出願契約やライセンス契約が増加」⁵ ⁶¹しています。この戦略は、プラットフォームの価値を飛躍的に高める一方で、二つの重大なリスクを内包します。
このリスクを管理するためには、「バランスの取れた対応」⁵という属人的なポリシーを超えた、体系的かつスケーラブルなIPガバナンス体制(例:パートナーランクに応じた標準ライセンス契約の整備)が不可欠となります。
長期的な最大の戦略的リスクは、ファナックの事業戦略が、グローバルな「地政学リスク」および「経済安全保障」のメガトレンドと直接交差する点にあります。
ファナックが製造・販売する高性能なCNC装置、産業用ロボット、およびそれらを制御するAI技術(18)は、自動車、半導体、航空宇宙、防衛といった国の基幹産業を支える「重要技術」そのものです。したがって、これらの技術は、経済安全保障推進法(2022年5月成立)⁴¹に代表される各国の規制(輸出管理、投資管理、技術移転規制)の対象となる可能性が極めて高い領域です。
米中対立⁴²に象徴される地政学的な分断が進む世界において、ファナックは二つの相反する要請の板挟みになるという、根本的なジレンマ(Dilemma)に直面します。
この「アクセル(事業拡大・オープン化)」と「ブレーキ(安全保障・クローズ化)」を同時に踏まなければならない状況は、ファナックの経営、IP、法務部門にとって、極めて高度な舵取りを要求します。例えば、FIELD systemのパートナー(1)が安全保障上の懸念国に属する場合、どこまでの技術開示を許可するのか。あるいは、巨大市場である中国での事業展開において、最先端のAI技術(18)やロボット制御技術の開示・移転を巡り、日米政府からの圧力と、中国政府からの要請との間で、難しい判断を迫られる可能性があります。この地政学的リスクのマネジメントは、ファナックのIP戦略における長期的な最重要課題であると言えます。
ファナックの知財戦略は、外部環境の急速な変化に対応し、未来の競争優位を確立するために、さらなる進化を迫られています。特に、「技術」「市場」「政策」という三つのメガトレンドは、同社のIPポートフォリオのあり方と、IP部門の役割に根本的な影響を与えると予測されます。
ファクトリーオートメーション(FA)の世界では、競争優位の源泉が、ハードウェアの「精度」や「速度」といった物理的性能から、ソフトウェアの「知能」へと急速にシフトしています。ハードウェアの性能があるレベルで均質化(コモディティ化)する中で、真の差別化要因は、AI(人工知能)による自律制御、リアルタイム最適化、予知保全といった、ソフトウェアとデータがもたらす付加価値になります。
ファナックのIP部門(特許部)は、この潮流を早くから認識していました。2017年の時点で、彼らは今後の課題として「IoT、AIなど今後の新しい潮流に沿った知財に対応すべく,業務内容の見直しを進めています」⁶¹と明言しています。
この予見は、今や現実のものとなっています。JPOの調査でファナックがAI関連発明で国内12位⁵⁵にランクインしている事実は、この「見直し」が実行に移されている証拠です。
今後の展望として、この流れはさらに加速します。ファナックのIPポートフォリオは、伝統的な機械工学系の特許分類(例:B25J(マニピュレータ)⁵²)に加え、AI(G06N等)⁵⁵、データ処理(G06F)、シミュレーション(G06T)といった、ソフトウェア・情報処理系の特許分類の比重が(「質」の観点で)ますます高まっていく必要があります。
未来の「質の高い特許」⁴とは、単体のハードウェアを守るものではなく、(a) AI/ソフトウェア(18)の中核アルゴリズムを保護するもの、(b) FIELD system(1)のプラットフォーム標準に不可欠となるもの(標準必須特許:SEP)の性質を帯びるもの、そして (c) FIELD system上でAIモデルを学習・実行させるための「データ」そのもの(あるいはその利活用法)に関連するものになっていくと推察されます。
単体製品の性能競争から、ソフトウェアとAIの競争へとシフトした結果、FA市場の主戦場は「プラットフォーム(エコシステム)」間の競争へと完全に移行しました。
市場は今、ファナックの「FIELD system」(1)、Siemensの「Xcelerator / MindSphere」(10)、ABBの「デジタルパートナーシップ」(7)、そしてKUKAの「iiQKA.OS」(12)といった、各社が提唱するエコシステムが、顧客(工場)とパートナー(アプリ開発者)を奪い合う、プラットフォーム戦国時代に突入しています。
今後の市場シェアは、もはやCNCやロボットの単体出荷台数だけでは決まりません。「どれだけ多くの優れたパートナー(1)と、先進的な顧客を、自社のプラットフォームにロックイン(囲い込み)できるか」によって決定されます。
この市場動向は、ファナックの知財戦略、特に「オープン戦略」の実行方法に直結します。FIELD systemの成功は、同社の「オープン」な姿勢と、「バランスの取れた」⁵ ⁶¹ライセンスポリシーが、競合(特に、設計段階から顧客を囲い込むSiemens(11))のエコシステムよりも魅力的であり続けられるかどうかにかかっています。
IP部門の役割は、自社の権利を守る「ガーディアン」であると同時に、パートナーの参入障壁(IPに関する懸念)を取り除き、エコシステムを繁栄させる「アーキテクト(設計者)」および「エバンジェリスト(伝道師)」としての側面を、より一層強化していく必要があります。
前章のリスク分析で指摘した「経済安全保障」⁴¹や「地政学的対立」⁴²は、単なるリスク(脅威)ではなく、新たな市場ルールを形成する「機会」でもあります。
今後、グローバルなサプライチェーンが「効率性」優先から「安全性・信頼性(レジリエンス)」優先へと再編される中で、重要な産業インフラ(例:半導体工場、防衛産業、医薬品工場、データセンター)における自動化システムの選定基準は、根本的に変わる可能性があります。
従来の「性能」「価格」「保守サポート」といった基準に加え、「サプライチェーンの信頼性(Trusted Supply Chain)」や「技術流出リスクの低さ(Security)」、すなわち「そのシステムは地政学的に信頼できるか?」という問いが、決定的な選定要因となることが予測されます。
この文脈において、ファナックの伝統的な企業文化と体制は、新たな価値を持つ可能性があります。
この「信頼性(Trust)」は、特許権や商標権のように法的に登録されるものではありませんが、顧客の購買決定に決定的な影響を与える、極めて強力な「無形の競争優位」、すなわち「知的資産(Intellectual Asset)」です。
今後の展望として、ファナックの知財戦略は、この「信頼性」という無形の資産を、法務(契約)、技術(セキュリティ)、マーケティング(ブランディング)の観点から裏付け、保護し、積極的に活用していくことが求められます。ファナックのIP部門の未来の役割は、「ハードウェア(特許)」を守ることから、「ソフトウェア・エコシステム(契約)」を設計し、さらには「企業の信頼性(知的資産)」を構築することへと、そのフロンティアを拡大させていくことになるでしょう。
本分析に基づき、ファナックがその知的財産戦略をさらに発展させ、将来の競争優位を強固にするために取り得る、あるいは強化すべき具体的なアクション(戦略的示唆)を、「経営層」「R&D部門」「事業化部門」の三つの観点から提言します。
本レポートは、ファナックの知的財産(IP)戦略について、その背景、組織体制、戦略的転換、および競合比較を通じて網羅的に分析しました。
ファナックの知財戦略は、単なる研究開発(R&D)の成果保護という受動的な機能に留まらず、同社の経営戦略と不可分に連動する、計算された「ハイブリッド・システム」として機能していると結論付けられます。
その核心は、二つの戦略的支柱にあります。
第一の柱は、2020年頃に断行された「量から質」への明確な戦略的転換です⁴ 4。これは、2010年代の「量」の追求(出願ノルマ等)⁴が、IPマインドセットの醸成⁵という一定の成果を上げた一方で、「実施していない特許」⁴の増加というコストと非効率を生んだことへの反省に基づいています。この転換は、国内特許出願の90%以上の劇的な削減²と、高コストな国際特許出願(PCT)¹⁶へのリソース集中という定量的な事実によって証明されています。この戦略は、「社長直属の研究統括本部」⁶¹というIP-R&D一体化組織と、「発明の評価基準」⁴ 4および「見える化」³³ツールによって、強力に実行されています。
第二の柱は、「オープン・クローズ戦略」⁶¹の巧みな使い分けです。伝統的な中核技術(CNC、サーボ)のIPは徹底的に秘匿・保護する「クローズ戦略」⁶¹を堅持しつつ、未来の戦場であるIoTプラットフォーム(FIELD system)⁵においては、500社以上のパートナー⁵を巻き込む「オープン戦略」⁵を並行して推進しています。この二正面作戦において、IP部門は、「バランスの取れた対応」⁵ ⁶¹をポリシーとして掲げ、エコシステムの「設計者」および「交渉人」という、従来よりも高度なビジネス機能へと変貌を遂げていると推察されます。
経営層および意思決定者への最大の戦略的含意は、ファナックが選択したこの高度なハイブリッド戦略の成功が、競合他社(ABB、Siemens) 7とは異なる土俵での戦いにかかっているという点です。ファナックの未来の競争優位は、ABBのような「R&D投資額」¹⁷や、Siemensのような「ソフトウェア・エコシステムの支配力」⁵⁶ ⁵⁷ではなく、以下の二つの「実行能力」によって決定されます。
ファナックの知財戦略は、今や「特許の数」を競う段階を終え、この複雑な「戦略的バランスの実行能力」そのものを競う、より高度なフェーズに突入していると結論付けられます。
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本レポートは、公開情報をAI技術を活用して体系的に分析したものです。
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