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デンソーの知財戦略:変革期の競争優位を築く

3行まとめ

2025年から知財部門を広報渉外部門へ移管し「知財戦略会議」を新設

デンソーは2025年から知財部門を研究開発部門から広報渉外関連部門へ移管し、全社横断の「知財戦略会議」を発足。知財情報を活用した「特許ドリブン」な事業戦略策定を推進する体制へ転換する。

「特許活用率」と「戦略採用率」の独自KPIで知財活動のROIを可視化

事業成長に貢献した特許の割合を示す「特許活用率」と、知財情報分析が事業戦略に採用された割合を示す「戦略採用率」の2つのKPIを導入。知財活動を事業貢献度で定量的に管理する仕組みを確立した。

内燃機関からCASE領域へ特許ポートフォリオを戦略的シフト

成熟領域の内燃機関関連から、電動化、AD/ADAS、半導体、ソフトウェアといった成長領域へ知財リソースを集中投下。半導体コンソーシアムでの共通IP標準化など、エコシステム形成を通じた市場拡大戦略を展開している。

エグゼクティブサマリ

 

本レポートは、株式会社デンソー(以下、デンソー)が推進する知的財産(以下、知財)戦略について、一次情報を基に網羅的かつ深く分析するものである。自動車業界がCASE(コネクテッド、自動運転、シェアリング、電動化)およびSDV(ソフトウェア・デファインド・ビークル)という百年に一度の大変革期に直面する中、デンソーの知財戦略は従来の「守り」から、事業創出とエコシステム構築を企図する「攻め」へと大きく舵を切っている。その全体像と本質を以下の要点で概説する。

  • 戦略の根源: デンソーの知財戦略の根底には、QRコード開発時に成功を収めた「オープン&クローズ戦略」の思想が流れています。基本特許を解放して市場を創造し、周辺技術で収益を確保したこの経験は、現在の標準化活動への積極的関与とエコシステム構築戦略の原型となっています。
  • 「知財経営」への進化: 「攻めと守りの知財戦略により、知財経営を実現する」というビジョンを掲げ、知財を単なる法的権利ではなく、経営資源として事業戦略と一体化させることを目指しています¹³
  • 3本柱による戦略実行: 知財戦略は「戦略」「ガバナンス」「内外対話」の3つの柱で体系化されています¹³。これにより、事業ごとの知財戦略策定、グローバルでの一貫した管理体制、そして投資家やパートナーとの対話を通じた戦略の高度化を推進しています。
  • 組織体制の変革: 2025年から知財部門を研究開発部門傘下から広報渉外関連部門へ移管する計画は、知財を技術保護のツールから、企業価値向上やアライアンスを促進する対外的なコミュニケーション資産へと再定義する象徴的な動きです¹⁵
  • KPIによる戦略の可視化: 「特許活用率」と「戦略採用率」という独自のKPIを導入¹⁴。前者は知財ポートフォリオのROI(投資対効果)を、後者は知財情報を活用した戦略策定の浸透度を測るもので、知財活動を事業貢献度で定量的に管理する先進的な試みです。
  • ポートフォリオの転換: 内燃機関関連といった成熟領域から、電動化、AD/ADAS(先進運転支援システム)、半導体、ソフトウェアといった成長領域へ、特許ポートフォリオを意図的にシフトさせています¹⁴
  • エコシステム形成の重視: 特に半導体分野では、コンソーシアムを通じて共通IPのグローバル標準化に貢献しています¹⁴。これは、自社技術の価値を最大化するために、独占ではなく市場全体の拡大を目指す戦略的判断と見られます。
  • 競合との差別化: グローバル競合であるボッシュやコンチネンタルも同様にCASE領域へ注力していますが、デンソーは知財活動と事業貢献を結びつけるKPIの導入や組織再編など、「知財経営」の仕組み自体を競争力の中核に据えようとする点で特徴が見られます。
  • 短期・中期・長期のリスク: 短期的には新戦略の実行と文化変革、中期的にはコネクテッドカー関連の標準必須特許(SEP)を巡る訴訟リスク、長期的にはSDV時代におけるITジャイアントとの競争という課題に直面しています。
  • 戦略的本質: デンソーの知財戦略は、ハードウェア中心のビジネスモデルからソフトウェア・サービス中心の未来へ適応するための、全社的な変革イニシアチブです。「攻め」の戦略は、新たな価値領域で主導権を握るための布石であり、その成否が同社の持続的成長を左右すると推察されます。
  • 経営への示唆: 経営層は「知財経営」のトップダウンでの推進、研究開発部門は知財情報を活用した「特許ドリブン」な開発プロセスの確立、事業部門はソフトウェア・ライセンスといった新たな収益モデルの構築が急務となります。

 

本文

 

 

背景と基本方針

 

株式会社デンソーの知的財産戦略を理解する上で、その根源が近年の経営環境の変化に対応して急遽構築されたものではなく、長年にわたり培われてきた思想と成功体験の延長線上にあることを認識することが極めて重要です。特に、今日の世界標準技術となったQRコードの開発と普及の過程に見られる知財戦略は、現在のデンソーの戦略思想の原型をなすものとして分析できます。

1949年の設立以来、デンソーは「世界と未来をみつめ 新しい価値の創造を通じて 人々の幸福に貢献する」という企業理念を掲げ、事業活動を展開してきました。この「新しい価値の創造」という理念が、同社の研究開発活動と、その成果である知的財産を重視する企業文化の根幹を形成していると見られます。この思想を具現化した最も象徴的な事例が、1994年にデンソー(現デンソーウェーブ)が開発したQRコードです。

当時、自動車部品の生産管理で用いられていたバーコードは、記録できる情報量が英数字で最大約20文字程度と限界があり、より多くの情報を格納できる新しいコードの開発が求められていました¹⁶。この課題解決のために開発されたのが、縦横の二次元に情報を持つことで、従来の約200倍の情報を記録可能にしたQRコードです¹⁶。しかし、この技術の真価はその発明自体に留まらず、その後の普及を企図した知財戦略にありました。

デンソーは、QRコードの読み取りに関する基本特許(特許第2938338号)を取得した上で、その権利を行使せず、仕様を公開することで誰でも自由に利用できるようにしました¹⁶。これは、技術を独占するのではなく、あえて「オープン」にすることで、その技術が社会インフラとして広く普及することを最優先した戦略的判断でした。このオープン化戦略により、QRコードは製造業や物流業に留まらず、決済、広告、個人認証など、世界中のあらゆる場面で利用されるデファクトスタンダードとしての地位を確立しました。

一方で、デンソーはQRコードリーダー(読み取り装置)や関連する情報処理装置といった周辺技術に関しては特許網を構築し、ライセンス料を得る「クローズ」戦略を並行して実行しました¹⁶。これは、自ら創出した広大なエコシステムの中で、特定の領域において収益を確保する、いわゆる「オープン&クローズ戦略」の典型的な成功事例です。市場(プラットフォーム)を無償で提供することで利用者を最大化し、そのプラットフォーム上で付加価値の高いサービス(製品)を有償で提供するというビジネスモデルは、現代のデジタルプラットフォーマーの戦略にも通じるものがあります。

さらに、デンソーウェーブは「QRコード®」という名称を商標として登録し、そのブランド価値の維持にも努めています¹⁷。これは、模倣品や悪用を防ぎ、利用者の信頼を確保すると同時に、普通名称化による権利の陳腐化を防ぐための重要な「守り」の活動です。過去には海外での不正な商標出願に対して一つひとつ解決にあたるなど、ブランド保護への強い意志がうかがえます¹⁷

このQRコードの事例は、デンソーの知財活動が単なる発明の保護に留まらないことを示しています。それは、市場創造のための戦略的ツールとしての知財活用(オープン化)、収益確保のための選択的権利行使(クローズ化)、ブランド価値と信頼性維持のための商標管理、という多面的な機能を有しています。

デンソーウェーブの知的財産活動の基本方針として「経営に貢献する知財活動」がスローガンとして掲げられ、製品開発の初期段階から事業計画や研究開発に知財戦略を組み込む活動が目指されてきたことも、この思想を裏付けています¹⁷ ⁴⁹

したがって、現在デンソーが全社的に推進している「攻めと守りの知財戦略」や「知財経営」といったコンセプトは、全く新しい概念ではなく、QRコードの成功体験で証明された戦略思想を、CASESDVといった現代の事業環境に合わせて、より高度かつ体系的に進化させたものと位置づけるのが妥当です。自社の強みとなる技術を知財で保護する「守り」の側面と、標準化やアライアンスを通じて市場全体を形成し、新たな価値を共創する「攻め」の側面を両立させるという考え方は、デンソーの企業文化に深く根差したDNAであると推察されます。

 

当章の参考資料

 

  1. https://kitaishihon.s3.isk01.sakurastorage.jp/IrLibrary/6902_integrated_2022_7426.pdf
  2. https://tokkyo-lab.com/co/qr-business
  3. http://www.jipa.or.jp/kaiin/kikansi/honbun/2016_02_230.pdf
  4. http://www.jipa.or.jp/kaiin/kikansi/honbun/2016_02_230.pdf

 

全体像と組織体制

 

自動車業界が直面する構造変革に対応するため、デンソーは知的財産の位置づけを根本的に見直し、それを事業戦略の中核に据える「知財経営」への転換を強力に推進しています。この転換は、新たなビジョンの策定、それを実行するためのフレームワーク、具体的な組織再編、そして活動の成果を測るための新たな指標の導入といった、多岐にわたる施策によって具体化されています。

デンソーが掲げる知財経営の全体像は、「攻めと守りの知財戦略により、知財経営を実現する」というビジョンに集約されています¹³。ここで重要なのは、「攻め」という概念が明確に打ち出されている点です。従来の知財活動は、自社の製品や技術を他社の模倣から守るための特許網構築、すなわち「守り」の活動が中心でした。しかし、電動化や自動運転のようにシステムが大規模かつ複雑化し、一社単独での技術開発が困難な時代においては、知財の役割も変化します。デンソーは、複数のIP(知的財産)を組み合わせて新たな価値を創出すること、そして他社との協業や標準化活動を通じて価値を共創するための経営資源として知財を活用する必要性を認識しています¹³ ᵇ²。この「価値共創のためのツール」としての知財活用こそが、「攻め」の戦略の核心であると見られます。

このビジョンを具体的な行動に落とし込むため、デンソーは知財活動を「戦略」「ガバナンス」「内外対話」の3つの柱に整理し、活動を強化しています¹³ ¹⁴

第一の柱である「戦略」は、事業環境や技術特性に応じた知財戦略を策定・実行することです。企業成長のドライバーとなる「モビリティの進化」「基盤技術の強化」「新価値創造」の3領域それぞれにおいて、競争優位を確立するための知財ポートフォリオを構築します¹⁴

第二の柱「ガバナンス」は、グローバルな知財体制の強化を意味します。デンソーは北米、欧州、中国などに拠点を持ち、現地の特許弁護士を採用して係争支援を行ったり、模倣品対策やブランド保護を強化したりしています¹³。また、グループ全体の課題解決とガバナンス強化を目的とした「グローバル知財会議」を定期的に開催し、グローバルでの一貫性と地域最適化の両立を図っています¹³。他社の知的財産権の尊重も厳格にルール化されており、コンプライアンス遵守を徹底しています¹³

第三の柱「内外対話」は、知財を社内外とのコミュニケーションツールとして活用することです。投資家向けには統合報告書などを通じて知財戦略を開示し、企業価値向上のストーリーを伝えます。また、社外パートナーとの対話を通じて得られる気づきをIP戦略にフィードバックし、より良い戦略へと昇華させることを目指しています¹³

こうした戦略的転換を実効性のあるものにするため、デンソーは2025年から大胆な組織体制の変更に着手する計画です。従来、知的財産部は研究開発部門の傘下に置かれていましたが、これを広報渉外の関連部門に移管することが報じられています¹⁵。この組織再編は、デンソーの知財戦略におけるパラダイムシフトを最も象徴的に示す動きと言えます。研究開発部門における知財部の役割は、主に発明の保護と権利化という内向きの機能が中心でした。しかし、広報渉外部門の傘下に入ることで、その役割は投資家、パートナー、顧客といった外部ステークホルダーとの連携やコミュニケーション、すなわち外向きの戦略的機能へと大きくシフトします。これは、知財ポートフォリオを法的な盾としてだけでなく、企業ブランド、技術力、将来性を示す重要なメッセージング資産として活用しようとする明確な意志の表れです。

さらに、この組織再編と並行して、2025年中には全社で知財戦略を議論する新たな会議体「知財戦略会議」を発足させる予定です¹⁵。この会議では、競合他社の特許分析などのデータを活用し、「事業や研究開発の方向性を『特許ドリブン(主導)』で変えていきたい」という意欲が示されています¹⁵。これは、研究開発の成果を知財で保護するという従来の順序を逆転させ、知財情報(IPランドスケープ)の分析結果を基に、どの技術領域に投資すべきか、どの事業に進出すべきかを決定するという、より戦略的なアプローチへの移行を意味します。

これらの戦略と組織体制を実務レベルで支えるのが、デンソーが全額出資する子会社、株式会社アイピックスです。アイピックスは特許調査や出願業務を専門とするエキスパート集団であり、デンソーグループ全体の知財戦略を技術的・実務的な側面からサポートする重要な役割を担っています¹⁸

結論として、デンソーはビジョン、戦略フレームワーク、組織、会議体、そして専門家集団という多層的なアプローチを通じて、「知財経営」という新たなパラダイムを全社に浸透させようとしています。特に、知財部門の広報渉外部門への移管と「知財戦略会議」の新設は、知財が技術部門のサポート機能から、経営戦略を動かすドライバーへと昇格したことを明確に示す、極めて重要な意思決定であると評価できます。

 

当章の参考資料

 

  1. https://yorozuipsc.com/uploads/1/3/2/5/132566344/dennso-2.pdf
  2. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/sustainability/governance/intellectual-property/
  3. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/
  4. https://note.com/toshiyuki_nakato/n/n3b119e359321
  5. https://www.ipics.jp/
    ᵇ². https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/

 

詳細分析

 

デンソーの知財戦略は、単なるビジョンや組織変更に留まらず、技術ポートフォリオの転換、ビジネスモデルの変革、そしてパートナーとのエコシステム構築という3つの具体的な側面において、緻密に実行されています。これらの活動は相互に連携しており、同社の競争優位性を未来にわたって維持・強化するための統合的なシステムを形成しています。

 

技術領域別ポートフォリオ転換

 

デンソーの知財戦略の核心は、事業構造の変革と歩調を合わせた、意図的かつダイナミックな特許ポートフォリオの再構築にあります。同社は、過去の成長を支えてきた成熟技術から、未来の成長を牽引するCASE領域へと、知財リソースを戦略的にシフトさせています。

この転換は、公式なメッセージの中でも明確に述べられています。従来の内燃機関関連技術から、電動化や自動運転といった成長領域へと技術の重点が移行しており、それに伴い特許ポートフォリオも、車両のエネルギーマネジメントやモーター技術といった電動車関連、車外センシング技術やインフラ協調による事故防止技術などのAD/ADAS関連へと変換を進めていることが公表されています¹⁴。この動きは、デンソーの2025年中期方針で定められた重点事業領域と完全に一致しています。中期方針では、アライアンスを推進する重点領域として「電動化」「ADAS」「半導体」「新事業」「ソフトウェア」の5つが挙げられており⁴⁰ ᵇ⁷、研究開発活動もこれらの分野に集中的に投下されています²⁵ ²⁶ ³⁰

このポートフォリオ転換の進捗と実効性を測るため、デンソーは「特許価値スコア」という独自の指標を用いています¹³。特に「環境領域」における電動車関連技術や、「安心領域」におけるADAS関連技術の特許価値スコアをモニタリングしており、主要な自動車メーカーに対しても高い優位性を維持していると自己評価しています¹⁴。これは、知財投資の成果が競争力に直結していることを示す客観的な証左として、社内外のステークホルダーに提示しているものと考えられます。

特に注目すべきは、SDV(ソフトウェア・デファインド・ビークル)時代の到来を見据えた、ソフトウェアと半導体に関する知財戦略です。

ソフトウェア領域では、クルマの価値がハードウェアからソフトウェアへと移行する中で、ソフトウェアを構成する多様なIPの価値を顧客に分かりやすく伝える仕組みづくりを進めています¹⁴ ᵇ²。これは、従来の部品単位での販売モデルから、機能やサービスをライセンスするような新しいビジネスモデルへの移行を示唆しており、その根幹を知財が支えるという思想の表れです。

半導体領域では、自社技術の権利化に留まらず、業界全体の発展と市場拡大を視野に入れた戦略を展開しています。半導体コンソーシアムなどを通じて共通IPのグローバル標準化に貢献することで、エコシステムの形成を促進しています¹⁴。このアプローチは、標準化された大きな市場の中で自社の高度な技術の価値を最大化するという、かつてのQRコード戦略にも通じる高度な戦略です。

 

ビジネスモデルと知財活用

 

デンソーは、知財を事業貢献に直結させるための管理手法として、独自のKPI(重要業績評価指標)を導入し、知財活動のROI(投資対効果)を可視化・最大化しようとしています。このKPIドリブンのアプローチは、同社の「知財経営」を具現化する上で最も特徴的な要素です。

中心となるKPIは「特許活用率」と「戦略採用率」の二つです¹⁴

「特許活用率」は、事業成長に貢献した特許の割合を示す指標です。このKPIは、単に特許件数を増やすのではなく、事業に真に貢献する「質の高い」特許網の構築を促すことを目的としています。活用されていない、あるいは事業貢献度の低い特許を特定し、ポートフォリオの維持コストを最適化する効果も期待されます。これは、既存事業の競争力を維持・強化する「守り」の知財活動を、より効率的かつ効果的にするためのツールと言えます。

一方、「戦略採用率」は、策定される事業戦略のうち、IPLIP Landscape:知財情報分析)の情報が事業戦略のストーリーに採用された割合を示す指標です¹⁴。これは、知財活動を事業戦略の上流工程に組み込むための極めて重要なKPIです。従来、知財部門は研究開発の「後」に成果を保護する役割を担うことが多かったのに対し、このKPIは、事業戦略を立案する「前」の段階で、競合の特許動向、技術の空白領域、提携候補先の知財情報などを分析し、その結果を戦略に反映させることを促します。これにより、事業戦略の精度を高めるとともに、市場投入後の知財リスクを低減し、競争優位性を確保する「攻め」の戦略を可能にします。

さらにデンソーは、これらの指標を事業の成熟度に応じて使い分けています。将来のポートフォリオの方向性を示す「先行指標」(例:戦略採用率)は新価値創造領域で、現在のポートフォリオの強さを示す「現在指標」はソフトウェアや半導体などの成長領域で、過去の実績を示す「遅行指標」はエンジン関連などの成熟領域で重視されます¹³ ¹⁴。このようなポートフォリオ・アプローチは、限られた経営資源を最も効果的に配分するための、洗練された知財管理手法であると評価できます。これらのKPIは全社の知財戦略会議で共有され、年度ごとに進捗がレビューされることで、全社一丸となった活動を担保する仕組みとなっています¹⁴

 

パートナー・エコシステム戦略

 

デンソーの「攻め」の知財戦略は、パートナーシップとエコシステムの構築において、その真価を発揮します。同社は、自社の知的財産を他社を排除するための「壁」としてではなく、パートナーと連携し、より大きな価値を共創するための「橋」として活用する方向に明確にシフトしています。

この思想は、同社の公式メッセージに繰り返し表れています。電動化や自動運転のような複雑なシステム開発においては、単一のIPではなく、複数のIPを組み合わせることで付加価値が生まれるため、知財を「協業」や「標準化」のための経営資源として活用する必要がある、と強調されています¹³ ᵇ²。この方針は、2025年中期方針において、前述の5つの重点領域が「アライアンスの重点領域」としても位置づけられていることからも裏付けられます⁴⁰ ᵇ⁷

この戦略の具体的な実践例が、半導体コンソーシアムへの参加です¹⁴。ここでデンソーは、自社の技術を提供するだけでなく、他社と協力して業界共通のIPを創出し、それをグローバルスタンダードにすることを目指しています。この行動の背景には、高度な戦略的計算が存在すると推察されます。特定の技術規格が業界標準となれば、その規格に準拠した製品の市場は爆発的に拡大します。デンソーは、その標準化プロセスに深く関与することで、自社に有利な技術仕様を盛り込んだり、標準必須特許(SEP)の主要な権利者となったりすることが可能になります。結果として、自ら形成を主導した広大な市場において、他社に対する技術的・交渉的な優位性を確保できるのです。これは、独占的な利益を追求するよりも、市場全体のパイを大きくし、その中でより大きなシェアを獲得する方が最終的な利益は大きいという、プラットフォーム戦略の考え方に基づいています。

これら3つの側面、すなわち「技術ポートフォリオの転換」「ビジネスモデルと知財活用」「パートナー・エコシステム戦略」は、独立した活動ではなく、密接に連携しています。CASE領域への技術ポートフォリオの転換が、従来のハードウェア販売とは異なるソフトウェア・ライセンスなどの新しいビジネスモデルを必要とさせます。そして、その新しいビジネスモデル、特にプラットフォーム型のビジネスを成功させるためには、一社単独ではなく、多くのパートナーを巻き込んだエコシステムの構築が不可欠となります。この一連の論理的な連鎖こそが、デンソーの知財戦略の全体像であり、その一貫性と戦略性の高さを物語っています。

 

当章の参考資料

 

  1. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/sustainability/governance/intellectual-property/
  2. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/
  3. https://www.densotechno.co.jp/jobs/company/business.html
  4. https://www.densotechno.co.jp/business/
  5. https://denso-recruitment.snar.jp/
  6. https://www.denso.com/jp/ja/-/media/global/about-us/investors/integrated-report_web/2024/pdf-ja/034-036.pdf?rev=c472170b8f8b44f1a9b9c1cbff67b7b4
    ᵇ². https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/
    ᵇ⁷. https://www.denso.com/jp/ja/-/media/global/about-us/investors/integrated-report_web/2024/pdf-ja/034-036.pdf?rev=c472170b8f8b44f1a9b9c1cbff67b7b4

 

競合比較

 

デンソーの知財戦略の独自性と有効性を評価するためには、グローバル市場で直接競合するメガサプライヤー、特にドイツのロバート・ボッシュ(以下、ボッシュ)およびコンチネンタルAG(以下、コンチネンタル)との比較分析が不可欠です。これらの企業もまた、自動車産業の構造変革という共通の課題に直面し、CASE領域への大規模な投資と戦略転換を進めていますが、そのアプローチにはそれぞれ特徴が見られます。

まず、研究開発投資の規模において、各社の体力と戦略的重点領域がうかがえます。デンソーは、伝統的に売上収益の89%程度を研究開発費として投じてきました³²20243月期の連結売上収益が約7.14兆円であったことを考慮すると⁸ ¹¹、その研究開発費はおよそ6,400億円から7,100億円規模と推定されます。これに対し、ボッシュは企業規模が大きく、2024事業年度の研究開発費は78億ユーロ(1ユーロ=170円換算で約1.3兆円)に達しており、絶対額ではデンソーを大きく上回ります⁵¹ ᵇ¹⁰。ボッシュは全世界で約86,800人の研究開発人員と約48,000人のソフトウェア専門家を擁しており⁵²、その巨大なリソースを背景に広範な技術領域でイノベーションを追求しています。コンチネンタルは、中期的に連結で調整後EBITマージン811%の達成を目標に掲げ、高成長・高価値領域への事業ポートフォリオ再編を進めており、選択と集中による効率的な価値創造を目指す戦略が特徴です⁶¹

次に、各社の戦略的ポジショニングと知財戦略の方向性について比較します。3社ともに、電動化、自動化(自動運転)、コネクティビティ、ソフトウェアを未来の成長ドライバーとして認識している点は共通しています⁴⁰ ⁵⁴ ⁵⁸。しかし、その戦略的表現や重点の置き方には差異が見られます。

ボッシュは、「Invented for life」というスローガンを掲げ、自社を単なる自動車部品サプライヤーではなく、IoT(モノのインターネット)のリーディングプロバイダーとして位置づけています⁵⁰ ⁵³。センサー技術、ソフトウェア、サービス、そして独自のIoTクラウドを駆使し、スマートホームやインダストリー4.0、コネクテッドモビリティといった多様な領域で事業を展開しています。ボッシュの知財戦略は、この広範な事業ポートフォリオを支えるための、AIIoTを含む基盤技術の網羅的な保護と活用に重点が置かれていると推察されます。その特許出願は多数の国に及び、グローバルなイノベーションドライバーとしての地位を固めることを目指していますᵇ¹⁰

コンチネンタルは、特にオートモーティブグループにおいて「ソフトウェア・デファインド・ビークルのための優先的なシステムインテグレーター」となることを目指す戦略を明確に打ち出しています⁵⁸。これは、車両のアーキテクチャが根本的に変化する中で、ハードウェアとソフトウェアを統合するシステムサプライヤーとしての地位を確立しようとするものです。その戦略は、事業部門の再編や独立化といった組織的な変革を伴っており⁶¹、知財戦略もこのシステム統合能力の強化と、高価値なソフトウェア・ソリューションの保護に集中していると考えられます。

これに対し、デンソーの知財戦略は、「攻めと守り」というフレームワークと、「戦略」「ガバナンス」「内外対話」の3本柱によって、その思想と実行計画が極めて明瞭に言語化・体系化されている点が特徴的です¹³ ¹⁴。特に、「特許活用率」や「戦略採用率」といった独自のKPIを導入し、知財活動の事業貢献度を定量的に管理しようとするアプローチは、競合他社の公開情報の中では際立っています¹⁴。これは、単に優れた技術を開発・保護するだけでなく、知財を経営資源として最大限に効率化し、そのROIを追求する「知財経営」というマネジメントシステム自体の構築を目指していることを示唆しています。また、知財部門を広報渉外部門へ移管するという計画¹⁵は、知財をアライアンスやエコシステム構築のための対外的な戦略ツールとして活用する意志を、組織構造レベルで示している点でユニークです。

結論として、デンソー、ボッシュ、コンチネンタルは、いずれもCASESDV時代への適応という共通の目標に向かっていますが、その戦略的アプローチは異なります。ボッシュが圧倒的な規模と技術的広がりを武器に多角的なIoT戦略を推進し、コンチネンタルが事業の選択と集中を通じてSDV時代のシステムインテグレーターへの変貌を図る中で、デンソーは知財と事業戦略をKPIで緊密に連携させる「知財経営」という独自のマネジメントモデルを競争力の源泉としようとしているように見受けられます。競合が「何を」開発・特許化するかに焦点を当てる中で、デンソーは「いかに」効率的かつ戦略的にイノベーションと知財を管理するかという、プロセスの革新においても競争優位を築こうとしていると分析できます。

 

当章の参考資料

 

  1. https://kitaishihon.com/company/6902/ir-library/67931/download
  2. https://www.denso.com/jp/ja/-/media/secure-investors/securities/2024/securities-doc-101.pdf
  3. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/sustainability/governance/intellectual-property/
  4. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/
  5. https://note.com/toshiyuki_nakato/n/n3b119e359321
  6. https://www.netdenjd.com/articles/-/165581
  7. https://www.denso.com/jp/ja/-/media/global/about-us/investors/integrated-report_web/2024/pdf-ja/034-036.pdf?rev=c472170b8f8b44f1a9b9c1cbff67b7b4
  8. https://www.annualreports.com/HostedData/AnnualReportArchive/b/bosch_2021.pdf
  9. https://www.bosch.com/company/annual-report/
  10. https://www.scribd.com/document/899853587/BOSH-annual-report-2025
  11. https://www.annualreports.com/HostedData/AnnualReportArchive/b/bosch_2020.pdf
  12. https://www.bosch-presse.de/pressportal/de/en/press-release-250624.html
  13. https://www.annualreports.com/HostedData/AnnualReportArchive/c/continental-ag_2023.pdf
  14. https://thebrakereport.com/continental-unveils-mid-term-growth-strategy/
    ᵇ¹⁰. https://www.bosch.com/company/annual-report/

 

リスク・課題

 

デンソーが推進する野心的な知財戦略は、未来の成長に向けた強力なエンジンである一方、その実行過程においては短期、中期、長期の各時間軸で重大なリスクと課題を内包しています。これらのリスクを適切に管理できるかどうかが、戦略の成否を大きく左右すると考えられます。

 

短期的なリスク:実行と文化変革の課題

 

最も直接的かつ短期的なリスクは、戦略の実行(Execution)そのものに伴う困難です。第一に、「特許ドリブン」な意思決定¹⁵や、知財情報を事業戦略の上流に組み込むという新たなプロセスは、全世界で約17万人の従業員を抱える巨大組織³⁹にとって、大規模な文化変革を要求します。研究開発、事業企画、営業など、各部門が従来の業務プロセスや思考様式を変え、IPリテラシーを向上させる必要があります。この変革に対する現場の抵抗や、新しいKPI(特許活用率、戦略採用率)¹⁴が形骸化してしまうリスクは無視できません。経営層の強力なリーダーシップと、変革を促すための継続的な教育・インセンティブ設計が不可欠です。

第二に、コストの問題があります。成長領域へのポートフォリオ転換を進める一方で、既存事業を支える多数の特許を維持・管理するには莫大な費用がかかります。グローバルでの出願・維持費用、専門人材の育成・確保、そして高度なIPランドスケープ分析ツールの導入など、知財経営の高度化は、それ自体が大きな投資を必要とします。この投資が将来の収益に結びつくまでの期間、財務的な負担となる可能性があります。

 

中期的なリスク:標準必須特許(SEP)を巡る紛争

 

中期的な視点で最も深刻なリスクの一つが、コネクテッドカーやSDVの普及に伴い急増している標準必須特許(SEP: Standard Essential Patent)を巡る紛争です。自動車は4G/5GWi-FiBluetoothといった通信技術を標準搭載するようになり、これらの技術は通信業界の企業が保有する数千、数万のSEPによってカバーされています。SEPは、その技術標準を利用するためには避けて通れない特許であり、権利者は「公正、合理的、かつ非差別的(FRAND)」な条件でのライセンス提供が義務付けられています。

しかし、このFRANDライセンスの料率や条件を巡り、通信業界と自動車業界の間で深刻な対立がグローバルで頻発しています。ノキア対ダイムラー、シャープ対テスラといった訴訟は、自動車メーカーが通信技術の特許侵害で訴えられ、最悪の場合、車両の販売差し止めという厳しい判決を受けるリスクがあることを示しました⁷⁰ ᵇ¹³. 自動車メーカーやサプライヤーは、Avanciのようなパテントプールを通じて包括的なライセンス契約を結ぶか、個別の権利者と困難な交渉を行うかの選択を迫られています⁷⁰ ⁷¹ ⁷² ⁷³ ⁷⁴

デンソーも、コネクテッド関連製品やソフトウェアの開発を加速させる中で、このSEPリスクから無縁ではいられません。意図せず他社のSEPを侵害してしまうリスク、予期せぬ高額なライセンス料の支払いを求められるリスク、そして複雑な訴訟に巻き込まれるリスクは、事業の予見可能性を著しく低下させる要因となります。このリスクに対応するためには、法務・知財部門の高度な専門知識と、業界全体でのライセンス交渉の枠組み作りへの積極的な関与が求められます。

 

長期的なリスク:SDV時代における競争環境の激変

 

長期的に見て最も本質的な課題は、SDV化によって引き起こされる自動車産業のバリューチェーンの根本的な変化です⁶⁴ ⁶⁵ ⁶⁶ ⁶⁷ ⁶⁸ ⁶⁹。従来の自動車では、エンジン、トランスミッション、ECUといったハードウェア部品の性能や品質が価値の源泉であり、デンソーのようなメガサプライヤーがその中核を担ってきました。しかしSDVでは、車両の価値はハードウェアから、その上で動作するOS(オペレーティングシステム)、アプリケーション、そしてそれらを通じて提供されるサービスへと移行します。

この変化は、GoogleAppleNVIDIAQualcommといった、ソフトウェアと半導体に強みを持つITジャイアントにとって、自動車産業へ本格参入する絶好の機会となります。彼らが車載OSや統合SoCSystem-on-a-Chip)のプラットフォームを支配した場合、従来のサプライヤーは、彼らのプラットフォーム上で動作する一ハードウェア(コモディティ部品)の供給者に転落し、利益率が大幅に低下する「スマイルカーブ」の底に追いやられるリスクがあります。

この構造変化は、デンソーにとってまさに存亡に関わる脅威(Existential Threat)です。この長期的なリスクを深く認識しているからこそ、デンソーは単なるハードウェアの改良に留まらず、「攻め」の知財戦略を掲げ、ソフトウェアや半導体における独自のIPを構築し、新しいビジネスモデルを模索し、自らが主導するエコシステムを形成しようとしていると考えられます。デンソーの知財戦略全体が、この長期的なディスラプション(破壊的変革)に対する戦略的な回答そのものであると分析できます。「守り」の戦略は、既存のハードウェア事業の収益性を最大化し、変革への投資原資を確保するためのものです。そして「攻め」の戦略は、新たなソフトウェア中心のバリューチェーンにおいて、単なる部品メーカーに留まらず、価値創造の中核を担うプレーヤーとして生き残るための、未来への布石なのです。

 

当章の参考資料

 

  1. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/
  2. https://note.com/toshiyuki_nakato/n/n3b119e359321
  3. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/corporate-info/policy/medium-term-policy/
  4. https://www.mlit.go.jp/jidosha/content/001745506.pdf
  5. https://insight.sbdautomotive.com/rs/164-IYW-366/images/408_Report_Preview_Scaling_the_SDV_Deep_Dive_JPN.pdf
  6. https://global.honda/jp/stories/135-2406-SDV-developers-column.html
  7. https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2502/03/news003.html
  8. http://jspmi.sakura.ne.jp/material/file/eri/pdf/24-3_SDVInnovation_MobilityIndustry.pdf
  9. https://www.esol.co.jp/press/press_679.html
  10. https://www.patentsalon.com/topics/connectedcar/index.html
  11. https://www.ngb.co.jp/resource/news/3882/
  12. https://www.tokkyo.ai/news/patent-news/iv_toyota_honda/
  13. https://www.ngb.co.jp/resource/news/4117/
  14. https://www.netdenjd.com/articles/-/260429
    ᵇ¹³. https://www.patentsalon.com/topics/connectedcar/index.html

 

今後の展望

 

デンソーおよび自動車産業全体の知的財産戦略は、技術、市場、政策の動向と密接に連動しながら、今後さらにダイナミックに進化していくことが予想されます。将来の競争環境を形作るであろういくつかの重要なトレンドを以下に示します。

第一に、ソフトウェアとデータの知財化が加速することは間違いありません。SDVの進化に伴い、自動車の競争力は、OTAOver-the-Air)によるソフトウェアアップデートで提供される新機能や、サブスクリプション型のサービスによって定義されるようになります⁶⁶。これにより、知財戦略の主戦場は、物理的な部品の構造に関する特許から、ソフトウェアのアーキテクチャ、制御アルゴリズム、UI/UXデザイン、そしてそれらを収益化するためのビジネスモデル特許へと移行していくでしょう。デンソーがソフトウェアIPの価値伝達方法を模索していることは、このトレンドへの適応の始まりを示しています¹⁴

第二に、特許以外の知的財産の重要性が増大します。特に、自動運転技術やAIを活用したエネルギーマネジメントシステムなどでは、競争力の源泉が、特許化された個別の発明だけでなく、むしろ特許として公開できない、あるいはしにくい無形の資産に移ります。具体的には、膨大な走行データから学習させたAIモデル、独自のシミュレーション環境、高度なアルゴリズム、そして製造工程におけるノウハウ(トレードシークレット)などが挙げられます。これらの非特許IPをいかに法的に保護し、技術的に秘匿し、戦略的に活用するかが、企業の差別化要因となります。デンソーがFactory-IoTAI、ビッグデータを活用した開発・製造プロセスを推進していることは²⁶ ²⁷ ²⁹、これらの無形資産の蓄積と活用を重視している証左であり、今後の知財戦略において、特許とトレードシークレットの最適な組み合わせ(IPミックス)をどう設計するかが重要なテーマとなります。

第三に、標準必須特許(SEP)を巡る環境はさらに複雑化します。現在の4G/5Gに関する紛争は、将来のV2XVehicle-to-Everything)通信、車載OSの標準API、バッテリーデータの共通フォーマットなど、新たな標準化領域における対立の序章に過ぎません。今後は、自動車メーカーやサプライヤーも、単に標準技術の利用者(インプリメンター)に留まるのではなく、自ら標準化団体に積極的に関与し、標準規格の形成を主導する側に回ることが戦略的に不可欠となります。デンソーが半導体コンソーシアムで標準化活動に貢献していることは¹⁴、この動きを先取りするものであり、将来の技術プラットフォームにおける発言権と有利なライセンスポジションを確保するための重要な布石と評価できます。

第四に、サステナビリティとサーキュラーエコノミーが新たな知財創出の源泉となります。カーボンニュートラル達成に向けた取り組みは、単なる環境規制対応に留まらず、新たな事業機会を生み出します。例えば、バッテリーのリユース・リサイクル技術、グリーン水素の製造・貯蔵・利用技術³、そして製品のライフサイクル全体でのCO2排出量を管理・追跡するデジタルプロダクトパスポート(DPP)関連技術²¹などは、今後、競争の焦点となる可能性があります。これらの領域で先進的な技術を開発し、特許で保護することは、企業の環境貢献と経済的価値を両立させる上で極めて重要になります。

これらの展望を踏まえると、デンソーの知財戦略は、今後さらに「攻め」の側面を強化し、ソフトウェア、データ、標準化、サステナビリティといった新たな価値領域でリーダーシップを確立することを目指していくと推察されます。その成功は、技術開発力だけでなく、法務、事業開発、渉外といった多様な機能を統合し、複雑な知財環境を乗りこなす全社的な能力にかかっています。

 

当章の参考資料

 

  1. https://www.edge-intl.co.jp/works-250227/
  2. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/
  3. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/corporate-info/press-info/
  4. https://www.densotechno.co.jp/business/
  5. https://www.denso-create.jp/business/function/research.html
  6. https://www.youtube.com/watch?v=Jkf4myuWJvM
  7. https://global.honda/jp/stories/135-2406-SDV-developers-column.html

 

戦略的示唆

 

本レポートの分析に基づき、デンソーが「知財経営」をさらに深化させ、自動車産業の変革期における競争優位を確固たるものにするため、経営、研究開発、事業化の各観点から以下のアクションを提言します。

 

経営(Management)への示唆

 

経営層の役割は、「知財経営」の理念を全社に浸透させ、その実行をトップダウンで強力に支援することにあります。

第一に、「知財戦略会議」の実質的な権限強化が不可欠です。2025年に発足予定のこの会議¹⁵を、単なる報告会や形式的な議論の場に終わらせてはなりません。IPランドスケープ分析の結果が、全社の研究開発予算の配分、M&Aやアライアンスのターゲット選定、そして事業ポートフォリオの見直しといった、具体的な経営判断に直接反映される仕組みを構築すべきです。会議の意思決定が、各事業部のKPIや業績評価に連動するよう設計することで、その実効性を担保することが求められます。

第二に、全社的なIPリテラシー向上への継続的投資が必要です。知財が特定の専門部署だけのマターであるという旧来の意識を払拭し、すべての従業員が自らの業務と知財の関わりを理解する文化を醸成することが重要です。特に、事業企画や営業部門の担当者が、顧客との交渉や契約において知財の価値を適切に評価し、それを価格や条件に反映できる能力を身につけるための研修プログラムを強化すべきです。

 

研究開発(R&D)への示唆

 

研究開発部門は、「特許ドリブン」¹⁵という新たなパラダイムを実践する主役であり、そのマインドセットとプロセスの変革が求められます。

第一に、IPランドスケープ分析を研究開発の「出発点」と位置づけるべきです。従来の開発プロセスでは、自由実施可能性(FTO: Freedom to Operate)の確認など、知財分析は開発の中盤から後半にかけて行われることが一般的でした。これを改め、プロジェクトの企画段階で、競合の特許網、技術の空白地帯(ホワイトスペース)、将来の技術トレンドなどを徹底的に分析し、その結果に基づいて開発テーマや技術的アプローチを決定するプロセスを標準化すべきです。これにより、手戻りのリスクを減らし、より独自性・競争優位性の高い技術開発にリソースを集中させることが可能になります。

第二に、発明の評価基準の転換が必要です。研究者・技術者の評価やインセンティブを、単なる特許の「出願件数」から、その発明が事業にどれだけ貢献したかを示す「質」へとシフトさせることが重要です。これは、デンソーが導入した「特許活用率」¹⁴というKPIの思想とも合致するものです。発明がライセンス収入に繋がった、クロスライセンス交渉で有利な材料となった、あるいは競合の参入障壁となった、といった具体的な事業貢献度を評価する仕組みを導入することで、研究開発活動と事業戦略の連携は一層強化されます。

 

事業化(Business Development)への示唆

 

事業部門、特に新規事業やソフトウェア関連事業を担う部門は、知財を活用した新たな収益モデルの構築という重責を担います。

第一に、ソフトウェアおよびデータライセンスに関する専門能力の構築が急務です。SDV時代には、ハードウェアの売り切りモデルに加え、機能単位のライセンス、データ利用権、サブスクリプションといった多様な収益モデルが主流となります。これらのビジネスを成功させるためには、適切な価格設定、利用条件、権利範囲などを定めたライセンス契約を設計・交渉する高度な専門知識が必要です。法務・知財部門と緊密に連携し、こうした新たなビジネスモデルに対応できる人材を育成・確保することが不可欠です。

第二に、知財ポートフォリオを交渉の戦略的ツールとして活用すべきです。大手自動車メーカーとの大型供給契約や、他社との合弁事業設立といった重要な交渉の場面において、自社の技術的優位性を示す客観的証拠として、関連する特許ポートフォリオを提示することは極めて有効です。これにより、単なるコスト競争から脱却し、技術価値に基づいた有利な条件を引き出す交渉レバレッジを生み出すことができます。知財部門を広報渉外部門の傘下に置くという組織再編¹⁵は、まさにこうした対外的な知財活用を促進するための布石であり、事業部門はこの意図を汲み取り、積極的に実践に移すべきです。

これらの提言は、デンソーが標榜する「知財経営」を、スローガンから具体的な企業競争力へと転換させるための具体的なアクションです。全社一丸となってこれらの変革に取り組むことで、デンソーは不確実性の高い未来においても、持続的な成長と企業価値向上を実現できる可能性が高まると考えられます。

 

当章の参考資料

 

  1. https://www.denso.com/jp/ja/about-us/investors/annual-report/integrated-report-2025/ocip-message/
  2. https://note.com/toshiyuki_nakato/n/n3b119e3g321

 

総括

 

本レポートで詳述した通り、株式会社デンソーの知的財産戦略は、自動車産業が経験している百年に一度の地殻変動に対する、計算され尽くした戦略的応答です。それは単なる特許管理手法の改善に留まらず、企業文化、組織構造、事業モデル、そして競争のルールそのものを再定義しようとする、野心的な全社的変革イニシアチブに他なりません。

「攻めと守りの知財戦略」という二元論的なフレームワークは、既存事業の収益性を最大化しながら(守り)、未来の成長領域へ大胆に投資するための原資を確保し、新たな価値創造の主導権を握る(攻め)という、生き残りと成長を両立させるための現実的なロードマップを提示しています。特に、知財部門の戦略的再配置、「特許活用率」「戦略採用率」といった事業貢献度に直結するKPIの導入、そして標準化活動を通じたエコシステム形成への注力は、同社が知財をコストセンターではなく、明確なプロフィットセンター、すなわち「知財経営」として捉えていることの力強い証左です。

しかし、その前途は平坦ではありません。SEPを巡る法廷闘争の激化や、SDV時代におけるITジャイアントとの異次元の競争は、デンソーの戦略にとって深刻な脅威となります。この変革を成功裏に収めるためには、経営層の揺るぎないコミットメントの下、研究開発から事業部門に至るまで、全社が「特許ドリブン」な思考様式を共有し、俊敏に行動することが不可欠です。

最終的に、デンソーの知財戦略の成否は、同社がハードウェア中心の「モノづくり」企業から、ソフトウェアとサービスを核とする「価値づくり」企業へと、真の意味で自己変革を遂げられるかどうかにかかっています。本戦略の推進は、その変革の成否を占うリトマス試験紙であり、その帰結は、同社の未来の企業価値、ひいては日本の製造業全体の将来像にも重大な示唆を与えるものとなるでしょう。

 

参考資料リスト(全体)

 

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【本レポートについて】

本レポートは、公開情報をAI技術を活用して体系的に分析したものです。

情報の性質

  • 公開特許情報、企業発表等の公開データに基づく分析です
  • 2025年10月時点の情報に基づきます
  • 企業の非公開戦略や内部情報は含まれません
  • 分析の正確性を期していますが、完全性は保証いたしかねます

ご利用にあたって
本レポートは知財動向把握の参考資料としてご活用ください。 重要なビジネス判断の際は、最新の一次情報の確認および専門家へのご相談を推奨します。

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