3行まとめ
ADC技術の「特許要塞」で圧倒的な競争優位を確立
第一三共は独自のDXd-ADCプラットフォームを多層的な特許網で保護し、個別製品ではなく「製品を生み出すエンジン」そのものを知財で押さえる戦略で、参入障壁を構築している。
知財を梃子に最大220億ドル規模の大型提携を実現
アストラゼネカ社との提携で最大69億ドル、メルク社との3つのADC提携で最大220億ドル(約3.3兆円)という巨額契約を成立させ、強固な知財基盤を収益化している。
事業・研究開発・知財の「三位一体」体制で価値創造を加速
研究開発の最上流段階から知財部門が関与し、競合他社の特許網が手薄な領域を特定して戦略的なポートフォリオ管理を行う「三位一体」体制により、能動的な価値創造を実現している。
この記事の内容
本レポートは、第一三共株式会社(以下、第一三共)の知的財産(以下、知財)戦略について、公開されている一次情報を基に網羅的かつ多角的に分析するものです。同社の知財戦略は、単なる研究開発成果の法的な保護に留まらず、経営戦略の中核として事業価値の最大化、競争優位性の確立、そしてグローバルなエコシステム構築を能動的に推進する「価値創造型」戦略であることが明らかになりました。以下に主要な分析結果を要約します。
製薬企業にとって知的財産は、長期にわたる研究開発投資を回収し、持続的なイノベーションを可能にするための生命線です。第一三共の知財戦略は、この基本的な役割を認識した上で、より能動的かつ多面的な価値創造を目指すものとして設計されている点が特徴的です。同社が公式に掲げる知的財産に関する基本方針は、その戦略思想の根幹をなすものであり、大きく3つの柱で構成されています。
第一の柱は、「知的財産の有効活用による企業価値向上」です¹。これは、創出された知的財産を単に保有・防衛するだけでなく、事業活動における競争優位性の源泉として積極的に活用することを意味します。具体的には、自社製品の市場における独占的な地位を確保するための強力な特許網の構築が挙げられます。これにより、後発医薬品の参入を一定期間阻止し、研究開発に投じた莫大なコストを回収するとともに、将来の成長に向けた利益を確保します。さらに、この方針は自社単独での事業展開に留まらず、他社との協業やライセンスアウトといった形での活用も視野に入れています¹。自社の強みである技術や特許を他社に提供することで、新たな収益源を確保したり、自社だけでは開拓できない市場や技術領域へ進出したりするなど、知財を梃子にした柔軟な事業展開を可能にしています。
第二の柱は、「第三者が当社の知的財産権を侵害した場合の適切な対応」です¹﹐¹⁰。これは、自社の権利を守るための断固たる姿勢を示すものです。製薬業界における特許侵害は、企業の収益基盤を根底から揺るがしかねない重大なリスクです。第一三共は、自社の特許権を侵害する行為を看過せず、必要に応じて訴訟も辞さない毅然とした対応をとることを明言しています。この方針は、潜在的な侵害者に対する強力な牽制となり、知的財産権の価値を維持するために不可欠な要素です。近年のSeagen社との特許訴訟に見られるように、同社はこの方針を実際に実行に移しており、その姿勢は一貫していると言えます。
第三の柱は、「第三者が有する有効な知的財産権の尊重」です¹﹐¹⁰。これは、自社の権利を主張するだけでなく、他社の正当な権利も尊重するという、コンプライアンスと倫理に基づいた事業運営の基本原則です。研究開発活動を進める上では、常に他社の特許ランドスケープを精査し、意図せざる侵害を回避するためのデューデリジェンスが不可欠です。この方針は、無用な特許紛争を未然に防ぎ、健全な事業環境を維持するための基盤となります。また、他社の優れた技術や特許を正当な対価で導入するライセンスイン戦略とも密接に関連しており、オープンイノベーションを推進する上での前提条件とも言えるでしょう。
これら3つの基本方針に加え、第一三共の知財戦略には特筆すべき重要な側面が存在します。それは、グローバルヘルス、特に開発途上国における医薬品アクセス問題に対する柔軟なアプローチです。同社は、「医薬品アクセスが困難な国や地域における特許の取り扱い」に関する方針を別途定めており、そこでは画一的な権利行使ではなく、各国の状況に応じたきめ細やかな対応を行う姿勢が示されています²。
具体的には、サブサハラアフリカ諸国(南アフリカを除く)や国連が定める後発開発途上国(LDC)など、経済的・地理的な理由で医療インフラが未整備な地域においては、「医薬品アクセスの改善を最優先」するとしています²。この方針に基づき、これらの国々での特許出願や権利行使は、「医薬品アクセスを阻害しない必要最小限の範囲にとどめる」という、極めて柔軟な運用を行っています²。
このアプローチは、単なる企業としての社会的責任(CSR)活動の一環と見るだけでは、その戦略的本質を見誤る可能性があります。これは、長期的な視点に立った高度なリスクマネジメント戦略と解釈することが可能です。製薬企業は、開発途上国における医薬品アクセス問題に関して、常に国際社会からの厳しい視線に晒されています。高価格な特許医薬品へのアクセスが制限される状況は、人道的な批判を招きやすく、企業のレピュテーションに深刻なダメージを与える可能性があります。さらに、各国政府による強制実施権(コンパルソリーライセンス)の発動といった、企業の特許権を強制的に制限する措置につながるリスクも内包しています。
第一三共が取る柔軟な方針は、こうしたレピュテーションリスクや政治的・法的リスクを未然に回避するための戦略的な布石と推察されます。これらの地域での短期的な特許収益をある程度度外視することで、より大きな市場である先進国におけるブランドイメージの毀損を防ぎ、安定した事業環境を維持することができます。また、国際社会や各国政府との良好な関係を構築することは、将来的な事業展開においても無形の資産となり得ます。このように、同社の知財戦略は、商業的利益を追求する厳格な側面と、人道的な配慮と長期的リスク管理を両立させる柔軟な側面を併せ持っており、そのバランスの上に成り立っていると言えるでしょう。
第一三共の知財戦略が単なる理念に留まらず、具体的な事業活動として強力に機能している背景には、その戦略を支える独自の組織体制と思想が存在します。同社の知財管理は、伝統的な法務・知財部門が研究開発の成果を事後的に保護するという受動的なモデルとは一線を画し、事業戦略と研究開発戦略に深く組み込まれた能動的な価値創造プロセスとして位置づけられています。その核心にあるのが、「事業部門・研究開発部門との連携強化」を目指した「三位一体」の体制です³。
「三位一体」とは、事業部門、研究開発部門、そして知的財産部門が、それぞれ独立して機能するのではなく、あたかも一つの組織のように緊密に連携し、共通の目標に向かって活動する体制を指します。この体制の最大の目的は、知的財産を単なる「権利」としてではなく、事業を成功に導くための「戦略的資産」として経営のあらゆる段階で活用することにあります。この思想は、特許庁が推進する「経営戦略の構築・実行の高度化に資する」知財戦略の考え方とも合致しており、収益性向上に直結するアプローチと言えます⁴。
この体制下で、知的財産部門の役割は大きく変容します。従来型の、発明が生まれてから出願手続きを行うという後工程の業務に留まらず、研究開発のまさに最上流の段階から深く関与することが求められます。具体的には、「研究開発テーマや方針の決定に参画」し、事業部門や研究開発部門と共に、どの技術領域にリソースを投下すべきか、どのような製品を開発すべきかを議論します³。この段階で知財の専門家が加わることで、競合他社の特許網が手薄な「ホワイトスペース」を特定したり、将来的に強力な特許権を取得できる可能性の高い研究テーマを優先したりするなど、知財の視点から研究開発の方向性を最適化することが可能になります。
さらに、知的財産部門は「研究開発テーマ選定に当たってのサポート」や「研究開発テーマ内容の方向付けへの関与」も行います³。これは、例えば特定の研究テーマについて、先行特許調査を詳細に行い、開発の自由度(Freedom to Operate)を確保できるか、あるいは他社の特許を回避する設計が可能かを初期段階で評価することを意味します。もし有望な技術が他社特許によってブロックされている場合には、その特許を無効化する可能性を探ったり、ライセンスインやM&Aによって技術を獲得したりする戦略オプションを検討します³。このように、知財部門は単なる調査・分析部隊ではなく、事業戦略の選択肢を提示する戦略パートナーとしての役割を担います。
この「三位一体」の思想は、特許の「質」を高める上でも極めて重要です。第一三共では、個々の特許を点として管理するのではなく、「知的財産を群で管理する」という考え方を採用し、最終的には「戦略的なポートフォリオ管理」を目指しています³。これは、一つの基幹技術を中心に、その周辺技術や改良技術、用途発明などを網羅的に特許で固め、あたかも城壁のように競合他社の参入を阻む「特許ポートフォリオ」を構築する戦略です。例えば、ある新薬の物質特許だけでなく、その製造方法、製剤、特定の疾患への新たな適用(用途特許)、さらには将来の改良に繋がりうる周辺技術までを戦略的に出願し、権利化していきます。このような強固なポートフォリオは、研究開発の初期段階から知財部門が関与し、発明のどの側面を、どのようなクレーム(権利範囲の記述)で、どの国に出願するかを戦略的に設計することによって初めて実現可能となります。
この体制を実効あらしめるためには、組織構造だけでなく、人材育成やインセンティブ設計も重要です。第一三共では、「人材育成で三位一体を深化する」とし、知財部門のスタッフが事業や研究開発に関する深い知識を習得する機会を設ける一方で、研究者や事業担当者が知財の重要性を理解するための教育も推進していると推察されます³。また、「報奨・表彰によりインセンティブを高める」ことで、質の高い発明の創出や、事業貢献度の高い特許の取得に対する動機付けを図っています³。
このように、第一三共の組織体制は、「三位一体」というキーワードに象徴されるように、知財を経営の根幹に据えるという明確な意志の表れです。知的財産部門を、研究開発や事業活動から切り離された専門部隊ではなく、価値創造プロセスの中心に位置づけることで、受動的な権利保護から能動的な事業貢献へとその役割を昇華させています。この組織設計こそが、同社がADC技術のような革新的なプラットフォームを基盤に、強力な知財ポートフォリオを構築し、それを最大限に活用した大型提携を次々と成功させている原動力であると考えられます。
第一三共の知財戦略は、その基本方針と組織体制を土台として、具体的な事業活動において多岐にわたる形で展開されています。特に、同社の近年の飛躍的な成長を牽引しているADC(抗体薬物複合体)技術領域と、その価値を最大化するためのパートナーシップ戦略は、同社の知財戦略の神髄を示すものと言えます。ここでは、「技術領域」と「パートナー/エコシステム」という2つの切り口から、その戦略を詳細に分析します。
第一三共の現在の企業価値と将来性を語る上で、DXd-ADCプラットフォームの存在は不可欠です。同社の知財戦略は、この革新的な技術プラットフォームをいかに強固に保護し、その価値を持続的に高めていくかという点に集約されていると言っても過言ではありません。この戦略は、単一の医薬品候補(分子)の特許を取得するという従来型の発想を超え、創薬の基盤となる「プラットフォーム技術」そのものを包括的に保護するという思想に基づいています。
この戦略の最大の成功例が、抗HER2 ADCであるエンハーツ®(一般名:トラスツズマブ デルクステカン、以下T-DXd)です。T-DXdは、特にHER2低発現乳がんといった、これまで治療選択肢が限られていた領域において画期的な有効性を示しました⁷。例えば、DESTINY-Breast04試験では、従来の標準治療薬と比較して無増悪生存期間(PFS)で前例のない改善を示し、死亡リスクを50%低下させました⁷。また、DESTINY-Breast03試験では、既存の標準治療薬であったT-DM1と比較してPFS中央値を4倍以上(28.8ヶ月 vs. 6.8ヶ月)に延長し、死亡リスクを36%減少させるなど、まさにアンメットメディカルニーズに応える圧倒的な臨床データを示しています⁷。
これらの目覚ましい成果は、T-DXdという個別の薬剤の成功であると同時に、その背後にあるDXd-ADCプラットフォーム技術の優位性を証明するものです。このプラットフォームは、①特定の標的に結合する「抗体」、②強力な細胞殺傷作用を持つ「ペイロード(薬物)」、そして③両者をつなぎ、がん細胞内でのみペイロードを放出させる「リンカー」という3つの要素で構成されています。第一三共の知財戦略の巧みさは、このプラットフォームの核心部分、特に独自に開発したペイロードであるデルクステカン(トポイソメラーゼI阻害剤)と、腫瘍内で効率的に切断されるよう設計されたリンカー技術に対して、多層的かつ広範な特許網を構築した点にあります。
このアプローチは「特許要塞」とも言うべき強固な参入障壁を築きます。競合他社が仮に類似のADCを開発しようとしても、第一三共のペイロードやリンカー技術の核心部分に触れれば、特許侵害のリスクを冒すことになります。これは、特定の抗体とペイロードの組み合わせ(=一つの製品)だけを保護するよりもはるかに強力な保護です。なぜなら、このプラットフォームを用いることで、抗体を変更するだけで、理論上は様々ながん種を標的とする新たなADCを次々と創出できるからです。つまり、第一三共は一つの製品ではなく、「製品を生み出すエンジン」そのものを知財で押さえているのです。このプラットフォームIPの存在こそが、後述する大型提携において、同社が極めて優位な交渉ポジションを確保できた最大の要因と考えられます。
このような戦略的な特許ポートフォリオを構築するためには、自社の研究開発動向だけでなく、競合他社の技術開発や特許出願状況を常に監視・分析する、いわゆるIPランドスケープ活動が不可欠です。特許情報プラットフォーム(J-PlatPat)のようなデータベースを活用し、特定の技術分野(例:ADC、抗体薬物複合体)や特定の企業(例:第一三共)をキーワードに検索・分析することで、技術開発のトレンドや空白領域を把握することができます¹⁸﹐¹⁹﹐²⁰﹐²¹﹐²²。第一三共の知財部門が、研究開発の初期段階から「三位一体」で関与していることは、まさにこのような分析活動を通じて、最も価値の高い領域に特許網を構築するための戦略的な動きであると推察されます。
さらに、第一三共の知財戦略はADCに留まりません。2023年11月に日本で承認された新型コロナウイルス(オミクロン株XBB.1.5対応)のmRNAワクチン「ダイチロナ®筋注」の開発においても、その戦略思想は貫かれています⁸。このワクチンでは、mRNAを細胞に送達するためのキーテクノロジーである脂質ナノ粒子(LNP)において、同社が独自に開発した「カチオン性脂質」が採用されています⁸。これは、既存のLNP技術に関する他社の知財を回避しつつ、有効性と安全性の面で最適化された独自の技術基盤を確立しようとする明確な意図の表れです。ADCプラットフォームと同様に、LNP技術もまた、mRNAワクチンという製品群を生み出すためのプラットフォーム技術です。この領域でも独自の知財基盤を構築することで、将来のパンデミック対応や、mRNA技術を応用した他疾患の治療薬開発においても、技術的な主導権と事業の自由度を確保しようという長期的な視野が見て取れます。
第一三共が構築した強固なDXd-ADCプラットフォームという知的財産は、それ自体が価値を持つだけでなく、他社との戦略的アライアンスを通じてその価値を何倍にも増幅させるための強力な触媒として機能しています。革新的な医薬品を創出し、グローバル市場で成功させるためには、莫大な研究開発費、大規模な臨床試験の実施能力、そして世界中に広がる販売・マーケティング網が不可欠です。第一三共は、これらのリソースを自社単独で全て賄うのではなく、自社の強みである革新的な技術プラットフォーム(とそれを支える知財)を梃子に、世界トップクラスの製薬企業をパートナーとして引き込み、リスクとリターンを共有するエコシステムを構築する戦略を選択しました。
その最初の、そして最も象徴的な事例が、2019年3月に発表された英国アストラゼネカ社とのエンハーツ®(DS-8201)に関するグローバルな共同開発・商業化提携です²⁴﹐²⁵。この提携は、最大で69億ドル(当時のレートで約7600億円)に達する可能性のある破格の規模であり、世界の製薬業界に衝撃を与えました²⁴﹐²⁵。契約のスキームは、両社の強みを最大限に活かすよう、非常に戦略的に設計されています。開発・販売にかかる費用と利益は、原則として両社で折半します²⁴﹐²⁵。販売地域については、日本市場では第一三共が単独で販売し、アストラゼネカ社にロイヤリティを支払う一方、米国、欧州主要国などでは第一三共が売上を計上し、中国やその他の多くの国ではアストラゼネカ社が売上を計上するという分担体制がとられています²⁴。
この提携の戦略的意義は、単なる資金獲得や販売協力に留まりません。第一三共の中山譲治会長(当時)が述べたように、その意義は①DS-8201の開発・商業化の加速、②がん事業の体制構築、③他のADC開発プロジェクトへの資源配分の拡大、という3点に集約されます²⁴。がん領域で世界有数の実績と販売網を持つアストラゼネカ社と組むことで、大規模なグローバル臨床試験を迅速に展開し、各国での承認取得と市場浸透を加速させることができます。これは、画期的な新薬を一日でも早く患者に届けるという使命を果たすと同時に、製品のライフサイクル価値を最大化する上で極めて重要です。また、この提携によって得られる巨額の契約一時金(13.5億ドル)やマイルストーン収入は、エンハーツ®だけでなく、それに続く第二、第三のADCパイプラインの開発を強力に後押しする、非希釈性の研究開発資金となります²⁵。
この成功体験は、両社の信頼関係を強固なものにし、2020年7月には第二の大型提携へと繋がりました。対象となったのは、抗TROP2 ADCであるダトポタマブ デルクステカン(DS-1062)で、こちらも最大60億ドル規模の契約です⁵¹﹐⁵²﹐⁵³﹐⁵⁵﹐⁵⁶。エンハーツ®と同様の共同開発・商業化スキームが採用され、第一三共のADCプラットフォーム技術が単発の成功ではなく、持続的に価値を生み出す「プラットフォーム」であることが改めて証明されました。
そして、この戦略は2023年10月、米メルク社との間で締結された、さらに巨大な提携によって新たな頂点を迎えます。この契約は、パトリツマブ デルクステカン(抗HER3 ADC)、DS-7300(抗B7-H3 ADC)、DS-6000(抗CDH6 ADC)という3つの次世代ADCを対象とし、受取総額は最大で220億ドル(約3.3兆円)に達する可能性があります⁶¹﹐ᴮ¹⁰。特に注目すべきは、契約一時金と開発費関連一時金を合わせて55億ドル(約8200億円)という、前例のない規模のアップフロントペイメントですᴮ¹⁰。これは、メルク社が第一三共のADCプラットフォーム技術と、そこから生まれる将来のパイプラインに対して、いかに高い評価と期待を寄せているかを示すものです。
これらの大型提携を概観すると、第一三共の知財戦略が「IP-as-a-Service」とも言うべき、高度なビジネスモデルを形成していることがわかります。自社で創出した強力なプラットフォームIPを基盤に、パートナー企業から巨額の資金とグローバルな事業インフラというリソースを引き出す。そして、そのリソースを活用して自社技術の価値をさらに高め、業界標準としての地位を確立していく。このサイクルは、アストラゼネカ社とメルク社という、がん領域における世界の二大巨頭を自社のエコシステムに取り込むことで、極めて強力なものとなっています。競合他社から見れば、この二社と同時に提携関係を構築した第一三共のADCプラットフォームは、もはや技術的な優位性だけでなく、事業構造そのものにおいても圧倒的なポジションを築いたと映るでしょう。
以下の表は、これら主要な戦略的アライアンスの概要を比較したものです。
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項目 |
アストラゼネカ (エンハーツ®) |
アストラゼネカ (Dato-DXd) |
メルク (3 ADC) |
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対象ADC |
DS-8201 (トラスツズマブ デルクステカン) |
DS-1062 (ダトポタマブ デルクステカン) |
パトリツマブ デルクステカン, DS-7300, DS-6000 |
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契約発表 |
2019年3月 |
2020年7月 |
2023年10月 |
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最大受取総額 |
69億ドル²⁵ |
60億ドル⁵³ |
220億ドルᴮ¹⁰ |
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契約一時金 |
13.5億ドル²⁵ |
10億ドル (分割払い)⁵³ |
45億ドル + 10億ドル (開発費関連)ᴮ¹⁰ |
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開発マイルストーン |
最大38億ドル²⁵ |
最大10億ドル⁵³ |
(販売マイルストーンに内包) |
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販売マイルストーン |
最大17.5億ドル²⁵ |
最大40億ドル⁵³ |
最大165億ドルᴮ¹⁰ |
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費用・利益配分 |
原則として両社で折半²⁵ |
原則として両社で折半⁵³ |
売上総利益・販促費などを折半ᴮ¹⁰ |
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主要な商業化体制 |
日本は第一三共単独販売。その他主要地域は共同販促・損益折半²⁵。 |
日本を除く全世界で共同開発・商業化⁵³。 |
日本は第一三共単独販売。その他地域は共同販促ᴮ¹⁰。 |
この表からも明らかなように、提携は回を重ねるごとにその規模を拡大させており、第一三共のADCプラットフォームに対する市場の評価が飛躍的に高まっていることが見て取れます。これは、同社の知財戦略が、単なる法的な権利保護に留まらず、巨額の企業価値を創造し、業界全体の構造に影響を与えるほどの強力な経営ツールとして機能していることの動かぬ証拠と言えるでしょう。
第一三共の知財戦略の独自性と有効性をより深く理解するためには、同業他社、特に国内のリーディングカンパニーである武田薬品工業株式会社(以下、武田薬品)の戦略との比較が有効です。武田薬品もまた、研究開発型のグローバル製薬企業として、知的財産を経営の重要課題と位置づけていますが、そのアプローチには第一三共とは異なる特徴が見られます。両社の戦略を比較することで、第一三共が選択した道の特異性が浮き彫りになります。
武田薬品の知的財産部門は、その企業理念に基づき、「患者さんを中心に考える」という価値観のもと、知的財産の保護と活用に取り組んでいますᴮ⁶。同社の統合報告書などで示されている知的財産部門の優先事項は、主に3つの柱から構成されています。第一に、「疾患領域別ユニットの戦略に沿った自社製品および研究開発パイプラインの価値の最大化および関連する権利の保護」ですᴮ⁶。これは、消化器系疾患、希少疾患、血漿分画製剤、オンコロジー(がん)、ニューロサイエンス(神経精神疾患)といった重点領域³³において、各事業戦略と連動した知財活動を行うことを意味します。第二に、「パートナーとの提携をサポートすることによる外部イノベーションの積極的な活用の促進」であり、自社創薬だけでなく、ライセンスインやM&Aを通じた外部技術の導入を知財面から支える役割を重視していますᴮ⁶。第三に、「新興国市場を含む世界各国での知的財産権取得および保護」を掲げ、グローバルでの事業展開を知財で下支えする方針ですᴮ⁶。
これらの優先事項は、第一三共の戦略と共通する部分も多いものの、その戦略思想の根底には明確な違いが存在すると推察されます。最大の違いは、「集中」と「分散」という戦略的スタンスの差です。
第一三共の近年の戦略は、前述の通り、DXd-ADCという単一の技術プラットフォームに経営資源を極度に集中させ、その領域で圧倒的な技術的優位性と知財ポートフォリオを確立することに主眼が置かれています。これは、特定の技術領域で「ベスト・イン・クラス」を目指し、その知財価値を梃子に業界の主導権を握ろうとする、非常にシャープで攻撃的な戦略です。この一点突破型の戦略が、アストラゼネカ社やメルク社との超大型提携を可能にし、短期間での劇的な企業価値向上を実現しました。
一方、武田薬品の戦略は、2019年のシャイアー社買収を経て、より多角的で分散されたポートフォリオを特徴としています。重点領域は5つ(ワクチンを含むと6つ)に及び³³、低分子、抗体、細胞治療、遺伝子治療など、多様なモダリティ(創薬手法)の研究開発を進めていると見られます。この戦略は、特定の技術や疾患領域の浮沈に企業全体の運命が左右されるリスクを低減する、リスク分散型のポートフォリオ戦略と言えます。したがって、武田薬品の知財戦略は、この多様なパイプライン全体を俯瞰し、各領域の事業戦略に応じて最適化された知財保護を行う、より広範でバランスの取れたものにならざるを得ません。
この戦略的スタンスの違いは、両社のパートナーシップ戦略にも表れています。第一三共のパートナーシップは、自社のADCプラットフォームIPを核とした「プラットフォーム・ライセンス型」が中心です。これに対し、武田薬品は、特定の製品候補に関するライセンス契約や、事業ポートフォリオを補完するための企業買収など、より多様な形態のアライアンスを駆使していると推察されます。
以下の比較表は、両社の知財戦略における主要な項目の違いをまとめたものです。
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比較項目 |
第一三共 |
武田薬品工業 |
分析・示唆 |
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知財ガバナンス |
事業・研究開発・知財の「三位一体」体制を強調³。研究開発の最上流から知財が関与。 |
疾患領域別ユニット戦略と連動した知財活動を重視ᴮ⁶。各事業部門との連携が基本。 |
第一三共はより中央集権的かつ能動的に知財部門がR&Dの方向性に関与する体制。武田薬品は各事業の自律性を尊重した分散連携型と推察される。 |
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中核技術フォーカス |
DXd-ADCプラットフォームに極度に集中。プラットフォーム技術全体の「特許要塞」化を志向。 |
消化器、希少疾患、オンコロジーなど複数の重点領域³³。モダリティも多様で分散型。 |
第一三共は「選択と集中」による高リスク・高リターン戦略。武田薬品はリスク分散を重視したポートフォリオ戦略。 |
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パートナーシップモデル |
ADCプラットフォームIPを梃子にした超大型の共同開発・商業化提携が中心²⁴﹐⁶¹。 |
パイプライン補完のための製品ライセンスやM&Aなど、多様なアライアンス形態を活用³³。 |
第一三共は自社技術を核としたエコシステム構築を目指す。武田薬品は外部イノベーションの取り込みによるポートフォリオ強化を重視。 |
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公表されている戦略的優先事項 |
「知的財産を群で管理する」³、「戦略的ポートフォリオ管理」³など、知財の構造的強化を志向。 |
「パイプラインの価値最大化」「外部イノベーション活用促進」「グローバルでの権利保護」など、事業支援機能としての役割を強調ᴮ⁶。 |
第一三共は知財そのものを戦略的武器と位置づける攻撃的な姿勢。武田薬品は事業を支える基盤としての知財を重視する、より安定志向な姿勢と見られる。 |
この比較から明らかになるのは、どちらの戦略が優れているかという単純な問題ではなく、両社が異なる経営環境と歴史的経緯の中で、それぞれ合理的な戦略的選択を行っているということです。武田薬品の分散型戦略は、巨大なグローバル企業としての安定性と持続性を担保する上で理に適っています。一方で、第一三共の集中戦略は、特定の技術領域でゲームチェンジを起こし、企業規模の壁を越えて業界のトッププレイヤーと伍するための、極めて効果的な手段となりました。
第一三共の知財戦略は、まさにこの「選択と集中」という経営判断を知的財産のレベルで徹底的に実行したものです。その結果、同社のADC技術は単なる有望なパイプラインの一つではなく、企業全体の価値を定義し、未来を切り拓くための戦略的中核として機能するに至ったのです。この競合比較は、第一三共の知財戦略がいかに大胆で、かつ経営戦略と不可分一体のものであるかを明確に示しています。
第一三共の知財戦略は、ADCプラットフォームという強力な資産を核に大きな成功を収めていますが、その成功は同時に、極めて高く、かつ複雑なリスクに晒されることを意味します。特に、数十億ドル規模の市場価値を持つ製品の知財は、競合他社からの厳しい挑戦を必然的に引き寄せます。その最も顕著な例が、米国のバイオテクノロジー企業Seagen社(現ファイザー傘下)との間で繰り広げられている、エンハーツ®を巡る一連の特許紛争です。この紛争は、短期・中期・長期にわたる複数のリスクと課題を内包しており、現代のグローバル製薬企業が直面する知財リスクの縮図と言えます。
短期リスク:特許侵害訴訟による財務的負担
最も直接的かつ短期的なリスクは、特許侵害訴訟における敗訴による金銭的負担です。Seagen社は、第一三共によるエンハーツ®の米国での販売が、自社が保有するADC関連の米国特許(通称 '039特許)を侵害しているとして、米国テキサス州東部地区連邦地方裁判所に提訴しました⁵⁹。
この訴訟において、2022年4月、陪審は第一三共による特許の「故意侵害」があったとの評決を下しました⁴⁰﹐⁵⁰。これを受け、2023年10月17日(現地時間)、同裁判所は第一三共に対し、Seagen社へ4180万ドル(約63億円)の損害賠償金と、2022年4月1日から'039特許が満了する2024年11月4日までのエンハーツ®の米国売上に対する8%のロイヤルティを支払うよう命じる一審判決を下しました³⁹﹐⁴⁵。
この判決は、第一三共の短期的な収益性に対する直接的な打撃となります。特に、急成長を続けるエンハーツ®の米国売上に対して継続的なロイヤルティ支払い義務が生じることは、利益率の低下を招き、株主や投資家からの評価にも影響を与えかねません。第一三共はこの判決を不服として控訴しており⁴⁶﹐⁴⁸、法的な争いは継続中ですが、一審判決が下されたという事実は、短期的な財務リスクとして明確に認識されるべきものです。
中期リスク:訴訟の長期化と事業の不確実性
Seagen社との紛争は、単一の侵害訴訟に留まらない、より複雑な様相を呈しています。これは、第一三共の知財戦略が、複数の法域や手続きを同時に活用して自社の権利を守る、多層的な防衛戦略をとっていることの裏返しでもあります。この複雑な法廷闘争は、中期的な事業運営に不確実性という影を落とします。
第一三共は、テキサスでの侵害訴訟と並行して、米国特許商標庁(USPTO)に対して、'039特許そのものが無効であると主張する「特許付与後レビュー(Post Grant Review, PGR)」を請求していました⁴⁹。そして2024年1月、USPTOはこの請求を認め、'039特許は無効であるとの決定を下しました⁴⁹﹐ᴮ¹²。この決定は、侵害訴訟の根拠そのものを覆す可能性のある、第一三共にとって極めて有利な展開です。もしこの無効判断が最終的に確定すれば、侵害訴訟におけるロイヤルティ支払い義務は消滅する可能性がありますᴮ¹²。
しかし、Seagen社はこのUSPTOの決定に対してさらに上訴する可能性があり、法的な決着までにはまだ時間を要すると見られますᴮ¹²。このように、地方裁判所での訴訟、控訴裁判所での審理、そしてUSPTOでの有効性審査が並行して進行する状況は、最終的な結果がどうなるかについての予測を困難にします。この不確実性は、中期的な事業計画や収益予測、さらには将来のパートナーシップ交渉などにおいて、無視できないリスク要因となります。訴訟に関連する弁護士費用などのコストも、長期化すれば巨額に上る可能性があります。
長期リスク:中核技術の帰属とプラットフォームの脆弱化
Seagen社との紛争の中で、エンハーツ®の一製品に関する特許侵害以上に、第一三共にとって根源的かつ重大なリスクが存在しました。それは、同社のDXd-ADCプラットフォームの基盤となる技術の知的財産権が、そもそも誰に帰属するのかという問題です。
この問題は、侵害訴訟とは別の「仲裁」という手続きで争われました。Seagen社は、第一三共のADC技術が、過去に両社が行った共同研究から生まれたものであり、その知財権は契約に基づきSeagen社に帰属すると主張していました⁵⁸﹐ᴮ¹¹。この主張がもし認められていれば、その影響は計り知れないものとなっていました。エンハーツ®だけでなく、DXd-ADCプラットフォームから生まれる全ての製品について、第一三共はSeagen社に対してライセンス料を支払い続けなければならなくなる可能性があったからです⁵⁸。これは、同社のADC事業の根幹を揺るがし、アストラゼネカ社やメルク社との提携の前提条件をも覆しかねない、まさに存亡に関わるリスクでした。
幸いにも、2022年8月に下された仲裁判断は、Seagen社の主張を全面的に退け、問題となったADC技術に関する知財権が第一三共に帰属することを認めました⁵⁸﹐ᴮ¹¹。さらに、2024年7月にはこの仲裁に関する最終判断が確定し、第一三共は仲裁費用約4700万ドルをSeagen社から受領することになり、この問題は完全に決着しました⁴⁷。この勝利は、同社の長期的な事業基盤を守る上で極めて重要な意味を持ちます。
しかし、この一連の出来事は、革新的なプラットフォーム技術がいかに激しい所有権争いの対象となりうるか、そして共同研究のような過去の契約が将来的に大きなリスクの火種となりうるかという教訓を残しました。今後も、第一三共は自社の技術プラットフォームの正当性をあらゆる角度から守り続ける必要があり、新たな提携や共同研究を行う際には、知財の帰属に関する契約条件をより一層慎重に設計することが求められるでしょう。
これら訴訟リスクに加え、第一三共は、自社製品の特許が他社の有効な特許を侵害しないよう、常に監視と分析を続ける必要があります。また、ノバルティス社の子会社プレキシコンとの特許訴訟で和解し、264億円の和解金を受け取った事例³⁸のように、自社の権利を積極的に行使する場面も存在します。このように、第一三共を取り巻く知財環境は、常に多方面からの挑戦と機会が混在する、ダイナミックで緊張感の高いものであると言えます。
第一三共の知財戦略は、DXd-ADCプラットフォームを軸に大きな成功を収め、同社を世界のがん治療薬市場における主要プレイヤーの一角へと押し上げました。今後の展望を考える上では、この成功をいかに持続させ、さらなる成長へと繋げていくかが最大のテーマとなります。そのためには、既存の知財価値を最大化する「深化」の戦略と、次世代の価値の源泉を創出する「探索」の戦略を両輪で推進する必要があります。これは、技術、市場、そして政策という外部環境の変化を的確に捉え、自社の戦略を柔軟に進化させていくことを意味します。
技術動向との接続:ADCプラットフォームの進化と次世代技術の創出
技術的な展望として、まず考えられるのはDXd-ADCプラットフォーム自体の進化と応用範囲の拡大です。現在進行中のアストラゼネカ社やメルク社との提携は、HER2、TROP2、HER3、B7-H3、CDH6といった多様な標的に対してDXd-ADC技術を展開するものであり、これにより非小細胞肺がん、乳がん、大腸がんなど、より多くのがん種への適応拡大が期待されます⁵⁴﹐⁶¹。知財戦略としては、これらの新たな製品候補それぞれについて、物質特許はもちろんのこと、特定のバイオマーカーを持つ患者集団に対する用途特許などを取得し、製品ごとのライフサイクルを最大化することが重要になります。
同時に、ADC技術そのものの改良も重要なテーマです。より効果の高いペイロードの開発、副作用をさらに低減させるためのリンカー技術の改良、あるいは抗体と薬物の結合比率(Drug-to-antibody ratio, DAR)を精密に制御する技術など、プラットフォームの根幹に関わる次世代技術の研究開発が進められていると推察されます。これらの基盤技術の改良に関しても、早期に強力な特許を取得し、プラットフォーム全体の競争優位性を維持・強化していく必要があります。特許庁が定期的に発行する「特許出願技術動向調査報告書」のような資料を活用し、ADC関連技術のグローバルな開発トレンドを常に把握し、自社の研究開発戦略と知財戦略に反映させていくことが求められるでしょう⁶⁴﹐⁶⁵﹐⁶⁹。
さらに長期的な視点では、ADCの次に来る新たな技術の柱を育成することが不可欠です。mRNAワクチン「ダイチロナ®」で培ったLNP技術⁸は、その有力な候補の一つです。この技術は、感染症ワクチンだけでなく、がんワクチンや遺伝子治療など、より広範な領域への応用可能性を秘めています。ADCプラットフォームで成功したように、LNP技術においても独自の基盤技術を知財で固め、将来のプラットフォーム事業へと育てていくことが期待されます。
市場動向との接続:グローバル市場での価値最大化と「パテントクリフ」への備え
市場動向との関連では、パートナーシップを通じて確保したグローバルな販売網を活用し、既存および将来のADC製品の市場価値を最大化することが当面の最優先課題です。特に、米国、欧州、中国といった巨大市場での成功が、企業全体の収益を大きく左右します。知財戦略の観点からは、各国の特許制度や薬事承認制度の違いを考慮した、国別のきめ細やかな権利化戦略とライフサイクルマネジメント戦略が重要となります。
一方で、製薬企業は常に「パテントクリフ(特許の崖)」という課題に直面します。主力製品の物質特許が満了すると、後発医薬品の参入によって売上が急激に減少する現象です。エンハーツ®をはじめとする現在の主力製品群も、いずれはこのパテントクリフを迎えます。同社がアストラゼネカ社やメルク社との提携から得る莫大なキャッシュフローは、このパテントクリフを乗り越えるための次世代パイプラインを創出するための、いわば「時間と資金」を稼ぐためのものです。
したがって、今後の知財戦略は、現在のADC製品群の特許期間を、製剤特許や用途特許などを活用して可能な限り延長し、収益期間を最大化すると同時に、その間に次世代の革新的新薬を知財と共に創出し、収益の柱をスムーズに移行させていくという、長期的な視点に立ったポートフォリオマネジメントが求められます。同社が統合報告書(バリューレポート)で示す「価値創造プロセス」⁶²とは、まさにこの研究開発と知財創出、そして事業化というサイクルを絶え間なく回し続けることに他なりません。
政策・制度動向との接続:国際的な知財保護の潮流への対応
グローバルに事業を展開する上で、各国の政策や国際的な制度の動向も無視できません。特に、米中間の技術覇権争いや、新興国における知的財産保護の強化・緩和の動き、さらにはパンデミック後の医薬品アクセスに関する国際的な議論(例:TRIPS協定の権利放棄)などは、製薬企業の知財戦略に直接的な影響を与えます。
第一三共は、基本方針として開発途上国での柔軟な特許対応を掲げていますが²、今後もこのような国際的な要請と、研究開発投資のインセンティブとなる強力な特許保護とのバランスを、慎重に取り続ける必要があります。また、各国での薬価制度改革の動向も、知財の価値評価に影響を与える可能性があります。これらの外部環境の変化を常にモニタリングし、グローバルな知財戦略に反映させていく体制を維持・強化することが、将来にわたる持続的な成長のための重要な鍵となるでしょう。
総じて、第一三共の今後の展望は、これまでの成功を築き上げたADCプラットフォームという強力な基盤の上に、いかにして次の成長の柱を打ち立てていくかにかかっています。それは、技術、市場、政策という多次元の動向を読み解きながら、知財戦略を羅針盤として、研究開発から事業化までの一貫した価値創造サイクルを力強く回し続けるという、終わりなき挑戦であると言えます。
本レポートで分析した第一三共の知財戦略は、同社の経営陣、研究開発部門、そして事業化を担う各部門に対して、いくつかの重要な戦略的示唆を与えます。これらは、現在の成功を持続させ、将来の成長を確実なものにするために考慮すべきアクション候補として整理することができます。
経営への示唆:イノベーション・サイクルの制度化と「成功のパラドックス」の回避
経営陣にとって最大の課題は、現在のADCプラットフォームの空前の成功が、将来のイノベーションの足枷となる「成功のパラドックス」をいかにして回避するかです。アストラゼネカ社やメルク社との大型提携は、莫大な収益をもたらす一方で、組織の関心を既存事業のオペレーションとアライアンス・マネジメントに集中させ、新たなリスクテイクを伴う基礎研究への意欲を削ぐ可能性があります。
これを克服するため、経営陣は、ADCプラットフォームを成功に導いた「三位一体」の価値創造プロセスを、特定のプロジェクトの成功体験に終わらせるのではなく、組織全体に深く根付かせる「制度化」を推進すべきです。具体的には、提携から得られる潤沢なキャッシュフローの一部を、明確な意思決定のもとで、次世代のプラットフォーム技術を創出するための長期的かつハイリスクな研究開発に戦略的に配分することが求められます。この投資は、短期的な業績評価からは独立した聖域として保護される必要があります。知財戦略の観点からは、この次世代技術の探索段階から知財部門を深く関与させ、10年後、20年後を見据えた「未来の特許要塞」の設計図を描き始めることが不可欠です。経営の役割は、現在の収益を最大化する「深化」のエンジンと、未来の収益源を創出する「探索」のエンジンを、意図的に両立させる組織構造と企業文化を構築することにあります。
研究開発への示唆:IPドリブンな研究開発の徹底とプラットフォーム思考の拡大
研究開発部門にとっては、知財情報を研究開発の羅針盤としてさらに活用する、「IPドリブンな研究開発」を徹底することが重要です。これは、単に他社の特許を回避するという受動的なアプローチではなく、IPランドスケープ分析を通じて競合が手薄な「ホワイトスペース」や、技術的に解決が困難だが大きな価値を持つ「フロンティア」を特定し、そこを狙って研究テーマを設定するという能動的なアプローチを意味します。
また、ADCプラットフォームで確立した「プラットフォーム思考」を、他の技術領域にも拡大していくべきです。例えば、mRNA/LNP技術や、細胞治療、遺伝子治療といった新たなモダリティにおいても、個別の製品候補の開発に留まらず、その基盤となる要素技術(例:デリバリー技術、細胞製造技術など)で、いかにして独自の、かつ広範な知財ポートフォリオを構築できるかという視点が求められます。研究者は、自らの発明が単一の製品に留まらず、将来の製品群を生み出すプラットフォームの一部となりうるかを常に意識し、知財部門と連携して、発明の価値を最大化する特許出願戦略を立案することが期待されます。
事業化への示唆:ライフサイクルマネジメントの高度化とアライアンス・エコシステムの進化
事業化を担う部門、特にマーケティングや事業開発部門にとっては、知財を基盤とした製品のライフサイクルマネジメント(LCM)戦略をさらに高度化させることが重要です。物質特許の満了後も、製剤特許、用途特許、配合剤特許などを戦略的に取得・活用し、製品の収益期間を可能な限り延長することは、次世代パイプラインへの投資原資を確保する上で不可欠です。これには、臨床開発の段階から、どのような追加データを取得すれば新たな用途特許に結びつくかを想定し、知財部門、研究開発部門と一体となって臨床試験をデザインするような、より深いレベルでの連携が求められます。
また、アライアンス戦略も進化させる必要があります。現在は、自社のプラットフォーム技術をライセンスアウトする形が中心ですが、今後は、自社にない革新的な技術を持つスタートアップやアカデミアの知財を、より積極的に導入するライセンスインやM&Aも重要性を増してくるでしょう。ADCプラットフォームの成功で得た資金力と交渉力を活かし、自社の技術とシナジーを生む外部の知財を的確に見出し、取り込むことで、イノベーションの源泉を多様化させることができます。これにより、自社単独の研究開発に依存するリスクを低減し、より強靭なアライアンス・エコシステムを構築することが可能になります。
これらの示唆は、第一三共が今後も知財を経営の中核に据え、持続的な成長を遂げるためのアクション候補です。各部門がそれぞれの立場で知財戦略の重要性を深く理解し、部門の垣根を越えて連携することで、同社の価値創造のサイクルはさらに力強く回転していくものと推察されます。
本レポートを通じて、第一三共の知的財産戦略が、単なる法務的な防衛機能ではなく、企業全体の価値創造を牽引する攻撃的かつ戦略的な経営ツールとして機能していることが明らかになりました。その核心には、DXd-ADCという革新的な技術プラットフォームを知財で徹底的に保護し、その圧倒的な価値を梃子にしてグローバルトップ企業との大型提携を実現するという、明快かつ大胆なビジョンが存在します。
事業・研究開発・知財が一体となる「三位一体」の組織体制は、このビジョンを実行するための強力なエンジンです。研究開発の最上流から知財戦略を組み込むことで、個別の発明を点として保護するのではなく、競合の参入を許さない「特許要塞」とも言うべき強固なポートフォリオを面として構築することに成功しました。この戦略は、同社をADCという急成長市場の紛れもないリーダーへと押し上げ、企業価値の飛躍的な向上をもたらしました。
しかし、その成功の裏側には、Seagen社との訴訟に見られるような、巨額の利益が懸かった知財を巡る熾烈で複雑な闘争という現実があります。これは、現代のグローバル製薬企業にとって、優れた知財戦略が、同時に高度な訴訟対応能力と不可分であることを示唆しています。
今後の第一三共にとっての最大の意思決定課題は、現在の成功に安住することなく、ADCプラットフォームから得られる莫大な果実を、次なる革新的プラットフォームの創出へと、いかに賢明に再投資できるかという点にあります。知財戦略を、一度きりの成功モデルではなく、持続的なイノベーションを生み出し続けるための「サイクル」として組織に定着させられるか。その成否が、同社が真のグローバル・トップ・イノベーターとして、長期にわたり輝き続けられるかを決定づけることになるでしょう。
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本レポートは、公開情報をAI技術を活用して体系的に分析したものです。
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