3行まとめ
主力品「イクスタンジ」を襲う「二重の崖」
最大の経営課題は、売上の約4割(7,505億円)を占める「イクスタンジ」が、2027年の特許クリフに加え、米国インフレ抑制法(IRA)による早期の収益低下という「二重の崖」に直面している点です。
対策の柱「ベオーザ」失速による収益ギャップ
崖対策の柱である重点戦略製品(KSPs)戦略は、期待された「ベオーザ」のピーク時売上予測が「3,000億~5,000億円」から半分以下に下方修正され、収益置換計画に深刻な不確実性が生じています。
M&Aへの緊急シフトと「Rx+」によるポートフォリオ変革
この収益ギャップを埋めるため、知財戦略の重心は緊急のM&A・ライセンスインにおけるデューデリジェンスへとシフトし、長期的には「Rx+事業」など新領域のIP構築によるリスク分散を急いでいます。
この記事の内容
本レポートは、アステラス製薬(以下、同社)の知的財産(IP)戦略について、公開情報に基づき網羅的に分析したものです。同社の知財戦略は、最大の経営課題である2027年の主力品「イクスタンジ」の特許失効(パテントクリフ)への対応を中核に据えていると分析されます¹²、¹⁰。
本分析から得られた主要な論点は以下の通りです。
アステラス製薬における知的財産(以下、知財)戦略は、同社の経営理念と事業モデルの根幹を成すものとして位置づけられています。その基本方針は、単なる権利の独占・排他にとどまらず、イノベーションの促進、社会的責任の遂行、そして持続的な企業価値の創出という、多層的な目的を追求するものとして設計されていると見られます。
アステラス製薬は、自らを「研究開発型製薬企業」と明確に定義しており、そのビジネスモデルにおいて知財への投資は「必要不可欠」なものであると認識しています²。2023年7月7日発行のコーポレートガバナンス報告書においても、革新的な医療ソリューションへの継続的な投資と、それに伴う知財・無形資産への重点的な投資が明記されています²。
同社にとって知財は、単なる法的な防衛手段ではなく、持続的成長を支える「重要な経営資源」として明確に位置づけられています³、¹⁰。この位置づけに基づき、知財戦略は事業戦略と密接に連携して推進されており³、経営理念である「先端・信頼の医薬で、世界の人々の健康に貢献する」¹という「存在意義」を実現するための究極的な手段として機能していると推察されます。
研究開発活動によって創出された発明を強固な特許権によって保護し、その独占的な権利活用を通じて得られた収益を、次なる革新的な医薬品の研究開発に再投資するというサイクルは、同社の事業継続性の核となっています。したがって、知財ポートフォリオの質と量は、同社の将来的なキャッシュフロー創出力、ひいては企業価値そのものを直接的に左右する最重要因子の一つであると言えます。
アステラス製薬は、全社的なIP活動の指針として「知的財産に関するポリシー」を公式に策定しています¹。このポリシーは、単に自社の権利を保護し、他者の権利を尊重するという基本的な行動規範を示すだけでなく、同社の社会的責任(CSR)や、グローバルな保健医療アクセスへの配慮といった、より広範な視点を含んでいる点が特徴的です。
具体的には、知財権の適切な保護・活用がイノベーション創出のインセンティブとして機能することを認めつつも、保健医療へのアクセス改善に配慮する姿勢を明確にしています。この方針の具現化として、同社は世界知的所有権機関(WIPO)が運営する「Pat-INFORMED(The Patent Information Initiative for Medicines)」に参加しています¹、¹⁰。
Pat-INFORMEDは、各国の医薬品調達部門が、アステラス製薬を含む参加企業の医薬品特許情報に容易にアクセスできるようにするためのデータベース・イニシアチブです。これに参加することにより、特許ステータスの透明性を高め、医薬品調達プロセスの予見可能性を向上させることで、グローバルな医薬品アクセスに貢献するとしています¹。
さらに、2019年の統合報告書では、経済的に貧しい国々においては、特許出願自体を控える方針も示唆されており¹、事業を展開する各国の経済状況や公衆衛生上のニーズに応じ、知財権の行使に関して柔軟かつ多面的な運用を行っていることがうかがえます。
同社の知財ポリシーにおける「患者中心」の姿勢は、外部イニシアチブへの賛同によっても補強されています。アステラス製薬は、「知的財産に関する10の主要原則からなる宣言(IP PACT: IP Principles for Advancing Cures and Therapies)」に賛同している企業の一つです³、¹⁰。
IP PACTは、知財権の取り扱いの中心に「患者さんのニーズ」を据えることを製薬企業が自ら約束するものであり¹⁰、イノベーションの推進とアクセスの両立を目指すコミットメントです。この宣言への賛同は、同社の知財活動が、単なる企業利益の追求(Profit-Maximization)ではなく、最終的な受益者である患者への「価値」の提供を目的としていることを、社内外に示すものとなっています。
こうした「IP PACT」や「Pat-INFORMED」への積極的な参加¹、¹⁰は、企業の社会的責任を果たす活動であると同時に、より戦略的な意味合いを持つ可能性が考えられます。近年、特に米国市場において、医薬品の価格高騰問題や、特許戦略(いわゆる「パテント・シケット(Patent Thicket)」)²¹に対する政治的・社会的な批判が高まっています²⁷。2022年に成立した米国インフレ抑制法(IRA)³⁰、³²、³³は、こうした政治的圧力が具現化した最たる例です。
このような背景下において、アステラス製薬が「患者中心」や「透明性」¹を前面に押し出すことは、自社の知財活動が社会的に受容可能であり、イノベーションを通じて患者価値に貢献するものであると積極的に発信することにほかなりません。これは、製薬企業の知財戦略に対するレピュテーション・リスクや、将来的な規制強化といった政治的リスクを中長期的に緩和するための、予防的な防衛戦略の一環であると推察されます。
強固な知財ポートフォリオの源泉は、社内の研究開発活動から生み出される質の高い発明です。アステラス製薬は、この内部イノベーションを継続的に促進するため、従業員に対するインセンティブ制度を整備しています。
具体的には、発明者に対しては「職務発明制度」を、そして開発プロセスの功績者に対しては「開発報奨制度」を適用しています³。注目すべきは、これらの報奨制度において、報奨金の上限は設けられていないと報告されている点です³。
上限を設けない報奨制度は、研究開発に従事する従業員の士気を高め、より大きな価値(商業的成功)を生み出す可能性のある、質の高い発明の創出を強力に動機づけると考えられます。これは、知財戦略と人事戦略が連動した、イノベーション創出エコシステムの重要な基盤となっていると言えるでしょう。
当章の参考資料
アステラス製薬の知財戦略は、専門部署による高度な実務遂行能力と、全社的な経営計画との緊密な連動によって支えられています。特に2027年に想定される主力製品の特許失効という大きな経営課題¹²に直面する中、知財部門の役割は従来の管理業務を超え、M&Aの実行支援や新技術領域の基盤構築といった、より戦略的かつ能動的なものへと進化していると見られます。
アステラス製薬の知財部門は、研究開発型製薬企業として不可欠な、多岐にわたる専門的機能を担っていると推察されます¹⁰。
第一に、中核となる「特許取得・管理業務」です。研究開発部門が生み出した発明を迅速かつ適切に評価し、グローバルな事業展開を見据えた強固な特許網を構築・維持することで、製品の競争優位性を法的に確保します¹⁰。
第二に、「知財リスク管理」です。これには、自社製品が他社の特許権を侵害する可能性を事前に調査・回避するクリアランス業務(FTO: Freedom To Operate)や、他社からの特許侵害訴訟への防衛、さらには自社特許を侵害する第三者(特に後発医薬品メーカー)に対する権利行使(訴訟提起)といった、事業活動を保護するための法務的対応が含まれます⁶、¹⁰。
第三に、「ライセンス業務」です。自社が保有する知的財産の活用を促進するためのライセンスアウト(導出)交渉や、自社のパイプラインを補完・強化するために他社の技術や化合物を導入するライセンスイン(導入)の交渉・契約締結を行います¹⁰。2022年度の有価証券報告書(2023年3月期)¹⁴には、FibroGen, Inc.(ロキサデュスタット)、Medivation Inc.(エンザルタミド/イクスタンジ)、Seagen Inc.(ADC技術)など、現在の同社の収益やパイプラインの根幹を成す多数の重要な技術導入契約が記載されています。この事実は、ライセンス業務、特にライセンスインが同社の事業モデルにおいて極めて重要な戦略的機能であることを示しています。
第四に、「M&Aサポート」です。M&A案件において、買収対象企業の知財ポートフォリオを精査するデューデリジェンス(DD)は、アステラス製薬の外部リソース活用戦略において決定的に重要です¹⁰。対象企業が保有する特許の有効性、権利範囲、残存期間、潜在的な侵害リスクなどを正確に評価し、そのアセットの真の価値とリスクを特定することが、大型買収の成否を左右します。
最後に、「オープンイノベーションの推進」です。大学や研究機関、バイオベンチャーとの共同研究契約²や提携における知財権の取り決め(帰属、実施権など)を設計・交渉し、外部の革新的なアイデアや技術を円滑に社内に取り込むためのハブとして機能します¹⁰。
アステラス製薬の知財戦略は、全社的な経営計画と不可分一体のものとして運用されています。その最も顕著な例が、「経営計画2021」(2021年度〜2025年度)との連動です。
この経営計画では、研究開発戦略の柱として「Focus Areaアプローチ」の実行強化が掲げられました²。これは、特定の疾患領域やアンメットメディカルニーズに研究開発リソースを集中するアプローチです。この経営方針を受け、同社の知財部門も、従来の主力製品(例:イクスタンジ)に関連する知的財産権のみならず、「先端的なモダリティ/テクノロジーの基盤となる知的財産・無形資産」に対する投資を重点的に行う方針へとシフトしています²。
この戦略的シフトは、将来の成長エンジンと期待される分野、例えば「統合報告書2025(ハイライト)」²²で示されたような、がん免疫、遺伝子治療、標的タンパク質分解誘導¹⁸といった新技術領域において、競合他社に先駆けて基盤となる特許(プラットフォーム特許)を早期に確保し、将来の事業展開における優位性を確立することを意図していると推察されます。
アステラス製薬は、「統合報告書2025(ハイライト)」²²において、2025年度から従来の「機能軸」(研究、開発、営業、生産といった機能別組織)の組織構造を廃し、「患者軸(Patient Axis)」の組織構造へと再編したことを発表しました。
公式な目的は、早期研究からコマーシャル(商業化)までの一連の活動を一気通貫で進め、機能横断的な協働を促進し、より迅速かつ効率的に患者への「価値」を実現することにあるとされています²²。
この組織再編は、単なるスローガンや文化的な変革にとどまらず、差し迫った経営課題に対する極めて実践的なオペレーション上の回答であると推察されます。同社の最大の経営課題は、前述の通り、2027年に迫る主力品「イクスタンジ」の特許クリフ¹²であり、その収益の崖を埋める次世代製品の上市が「間に合うかどうか」という「時間との戦い」です。
従来の機能別の縦割り組織(サイロ)は、各部門間の連携や業務の引き継ぎ(ハンドオフ)に時間がかかり、研究開発の初期段階から規制当局の承認、そして上市に至るまでのプロセス全体が遅延する(Time-to-Marketが長くなる)傾向がありました。
今回導入された「患者軸」²²という体制は、特定の疾患領域やプロジェクトごとに、研究、開発、薬事、知財、マーケティングといった各機能の担当者を一つのチームとして統合し、意思決定と業務執行のスピードを抜本的に上げることを目的としていると考えられます。
この新体制は、知財部門に対しても重大な役割の変化を促すものと見られます。すなわち、従来の「完璧な権利化」や「リスクゼロ」を追求する法務的な機能から、プロジェクトチームの一員として、事業スピードを最大化するために「許容可能な知財リスク」を迅速に評価・判断し、経営陣やチームに提示する、よりアジャイル(俊敏)な戦略的ビジネスパートナーとしての役割を強く期待されることになると推察されます。この組織再編は、2027年の「時間切れ」という脅威に対する、全社的な危機感の表れであると言えるでしょう。
当章の参考資料
アステラス製薬の現在の事業ポートフォリオと知財戦略を分析する上で、中核製品である「イクスタンジ(XTANDI®)」の存在は絶対的な前提条件となります。同社の短期および中期の経営戦略は、この超大型製品の知財保護と、その失効(パテントクリフ)にいかにして備えるかという一点に集約されていると言っても過言ではありません。
前立腺がん治療薬「イクスタンジ」(一般名:エンザルタミド)は、アステラス製薬の全社売上収益の約4割(2023年度実績)を占める最大のブロックバスター製品です。2023年度(2024年3月期)のグローバル売上収益は7,505億円に達し¹⁰、¹²、これは同社が設定していたピーク時予想(7,000億円以上)を上回る極めて好調な実績です¹²。
この巨額の収益は、強力な知的財産権によって支えられてきました。イクスタンジは、米国Medivation Inc.(現在はPfizer Inc.の子会社)から導入された製品であり¹⁴、アステラス製薬は(日本および一部アジアを除く)グローバルでの開発・販売権を保有しています。その独占的地位は、中核となる物質特許や用途特許といった強固な特許ポートフォリオによってグローバルに保護されてきました¹⁰。この成功は、アステラス製薬の知財部門がライセンス契約と特許管理を通じて、製品価値の最大化に大きく貢献してきたことを示しています。
アステラス製薬が直面する最大の経営課題は、この「イクスタンジ」の独占販売期間の満了、すなわち「2027年の崖(パテントクリフ)」です。
第一の崖は、伝統的な「パテントクリフ」です。イクスタンジは、最大市場である米国において、2027年を皮切りに各国で中核となる特許権が失効します¹⁰、¹²、²³。特許が失効すれば、後発医薬品(ジェネリック医薬品)メーカーが市場に参入し、薬価の急激な下落と市場シェアの喪失が起こります。年間7,500億円規模の売上が、数年間でほぼ消失する可能性があり、これは同社の経営基盤を揺るがす深刻な脅威です。
第二の崖は、このパテントクリフを実質的に前倒しする、新たな政策的脅威です。2022年に米国で成立した「インフレ抑制法(Inflation Reduction Act, IRA)」³⁰、³²、³³が、この問題を加速・複雑化させています。
IRAには、米国の公的医療保険であるメディケア(Medicare)が、特定の高額医薬品の価格を製薬企業と直接「交渉」(実質的な引き下げ)する権限が含まれています³⁰、³²。さらに、2025年1月からは、IRAに基づく「メディケアパートD(処方箋薬プラン)」の制度再設計が施行される予定です¹²。アステラス製薬自身も、この制度再設計により、イクスタンジは2025年3月期(2024年度)に5,000万ドルから7,000万ドルのマイナス影響を受けると見込んでいます¹²。
これは、アステラス製薬の知財戦略にとって極めて重大な事態を意味します。なぜなら、2027年の特許失効を待たずして、特許権が法的に有効である2025年から2027年の期間においても、政府の政策によって事実上の薬価引き下げ圧力を受け、製品の収益性が低下し始めるからです。
したがって、アステラス製薬が直面しているのは、「2027年の特許クリフ」という単一の期限ではなく、「2025年からのIRAによる収益性低下」と「2027年の特許失効による市場喪失」という、二段階で押し寄せる「二重の崖」であると分析されます。従来の知財戦略の定石であった「特許満了日まで収益を最大化する」というモデルは、IRAの登場によって根本的な見直しを迫られています。
この「二重の崖」に対し、アステラス製薬の知財・法務部門が現在実行している最も重要な短期的防衛戦略が、法廷闘争です。
2024年第3四半期の報告(Form 10-Q)²⁵によると、2024年8月より、複数の後発品メーカーがイクスタンジのジェネリック版の承認を求め、米国食品医薬品局(FDA)に簡略化新薬申請(ANDAs)を提出したことが通知されました。これらのANDAs申請は、イクスタンジを保護するためにFDAの「オレンジブック」に掲載されている一部または全部の特許に挑戦(Patent Challenge)するものです。
これに対しアステラス製薬は、同じく2024年8月から、米ニュージャージー州連邦地方裁判所において、これらのANDAs申請企業を相手取り、特許侵害訴訟を提起しました²⁵。この訴訟は、当該特許の有効性と、後発品による侵害を主張するものです。
この訴訟は、米国の医薬品特許制度(ハッチ・ワックスマン法)に基づく典型的な防衛戦略です。この訴訟提起の主たる目的は、単に勝訴して後発品の参入を完全に阻止することにあるだけではなく、より戦術的な「時間の獲得」にあると推察されます。
ハッチ・ワックスマン法では、特許権者が侵害訴訟を提起することにより、FDAによる後発品の承認が自動的に30ヶ月間停止される(30-month stay)制度が設けられています。アステラス製薬が目指しているのは、この30ヶ月の停止期間や、その後の裁判プロセス(第一審、控訴審)を通じて、後発品の市場参入を「可能な限り遅延させる」ことにあると考えられます。
イクスタンジの年間売上は7,500億円規模¹²に達しており、後発品の参入が1年、あるいは数ヶ月遅延するだけでも、アステラス製薬にもたらされる追加的な売上は莫大なものとなります。この訴訟²⁵によって「稼いだ時間」は、次章で詳述する次世代製品(KSPs)が成長し、2027年以降の収益の崖を埋めるための準備期間として、同社の存続にとって不可欠な戦略的価値を持ちます。したがって、この法廷闘争は、アステラス製薬の知財・法務部門が総力を挙げて取り組む、最優先の防衛戦略であると位置づけられます。
当章の参考資料
イクスタンジが直面する「二重の崖」¹²、³⁰を乗り越えるため、アステラス製薬の知財戦略は、既存製品の防衛と同時に、次世代の収益源となるパイプラインの知財構築という、二正面作戦を遂行しています。しかし、この収益置換計画は大きな不確実性に直面しており、戦略の重心を新技術領域へとシフトさせることを余儀なくされていると見られます。
イクスタンジの特許クリフによる莫大な収益減を補填するため、アステラス製薬は「重点戦略製品(Key Strategic Products, KSPs)」と位置づける複数の新製品群の育成に、全社のリソースを集中させています¹²。これらの製品群が、イクスタンジに代わる次世代の柱として期待されています。
2024年度(2025年3月期)の「統合報告書2025(ハイライト)」²²によると、KSPsは以下の5製品で構成されており、これらの合計売上収益は3,924億円に達し、全社売上収益の20.5%を占めるまでに成長しています。
これらのKSPsに対する知財戦略は、イクスタンジで培ったノウハウを活かし、物質特許のみならず、製剤、用法・用量、製造法など、多層的な特許ポートフォリオを構築し、製品ライフサイクルを可能な限り延長することにあると推察されます。
しかし、このKSPによる収益置換戦略は、計画通りには進んでいません。2024年5月時点の分析¹²によると、パイプラインの進捗には明暗が分かれています。
最大の誤算は、超大型化が期待された「ベオーザ(VEOZAH)」の市場導入の不調です。アステラス製薬は、同製品のピーク時売上予想を、従来の「3,000億円〜5,000億円」から「1,500億円〜2,500億円」へと、半分以下に大幅に下方修正しました¹²。
さらに、腎性貧血治療薬「エベレンゾ」もピーク時予想が引き下げられ¹²、将来の柱と期待された遺伝子治療薬「AT132」は米FDAから臨床試験の差し止めを受け¹²、「ASP0367」(ミトコンドリア関連)は開発中止¹²に至るなど、パイプラインの損失も相次いでいます。
一方で、ADCである「パドセブ」は極めて好調であり、ピーク時売上予想が従来の「3,000〜4,000億円」から「4,000〜5,000億円」へと引き上げられています¹²。
「ベオーザ」の失速¹²は、2027年以降の収益計画に「イクスタンジの穴」に次ぐ、第二の致命的な「穴」を開けたことを意味します。この新たな「ベオーザの穴」を、内部のR&Dパイプライン(2025年度末までにPoC取得見込み¹²、²²)で埋めることは、時間的にほぼ不可能です。
したがって、この新たな収益ギャップを2027年までに埋める唯一の現実的な手段は、外部からの導入、すなわち「M&Aまたはライセンスイン」以外に存在しないと考えられます。この緊急事態は、アステラス製薬の知財部門および事業開発部門の最優先順位を、不調なKSPsのライフサイクル延長(LCM)戦略から、「この穴を埋める次なる大型製品の獲得」のための緊急のデューデリジェンス(DD)へと、強制的かつ抜本的にシフトさせたと推察されます。
アステラス製薬は、イクスタンジやベオーザといった低分子医薬が直面するリスク(特許クリフ、およびIRAが低分子医薬に対してより早期に価格交渉を開始する不利な制度設計³¹)を中長期的に分散させるため、R&Dの軸足を根本的に異なる新技術(新モダリティ)へと移しています。
これが「経営計画2021」から続く「Focus Areaアプローチ」²です。「統合報告書2025(ハイライト)」²²では、次なる成長の柱として、以下の4つのFocus Area由来のフラッグシッププログラム(2025年度前半にPoC=概念実証の見極め予定)が示されています。
これらの新モダリティは、従来の低分子医薬とは根本的に異なる知財戦略を必要とします。例えば、低分子医薬の保護が「化合物(物質)特許」中心であったのに対し、遺伝子治療では、治療遺伝子そのものに加え、それを送達する「ベクター技術(例:AAV)」、特定の細胞に発現させる「プロモーター技術」、さらには「製造プロセス」など、極めて複雑な構成要素のそれぞれについて知財保護が必要となります。アステラスの知財部門は、これらの新領域における基盤特許の確保と、他社の基盤特許を回避する戦略策定に注力しているものと見られます。
イノベーションの創出スピードを上げるため、アステラス製薬は独自の「AI駆動型創薬プラットフォーム」を開発・導入し、医薬品候補化合物を取得するまでの期間を約70%短縮したと報告しています²²。
このAIの活用は、R&Dの劇的な効率化に寄与する一方で、知的財産法における新たな課題を突きつけています。AI創薬が直面する課題として、学習データの質と量の確保、AIモデルの透明性(ブラックボックス問題)、そして法的な課題が指摘されています⁸、¹⁶。
法的な課題の中でも特に深刻なのが、「AIが発見した化合物の特許権は誰が持つのか」という「発明者の適格性」の問題です¹⁶。現状、日米欧を含む多くの国の特許法では、発明者を「自然人(人間)」と定義しています。AIが自律的に(人間の介在なく)創出した発明は、法的に「発明者」が存在しないことになり、特許として保護できない可能性があります。
アステラス製薬がAI創薬を本格化させる²²以上、同社の知財部門も、AIの貢献度をどのように評価し、人間の研究者を「発明者」として法的に成立させ、特許権を取得するかという、この新しい法理論的課題への実務的な対応策の策定を迫られていると推察されます。
当章の参考資料
アステラス製薬の成長戦略は、内部の研究開発(R&D)努力と、外部リソース(技術、パイプライン)の戦略的な獲得という二つの車輪によって駆動されてきました。特に、2027年の「イクスタンジ」特許クリフ¹²と「ベオーザ」の失速¹²という二重の収益ギャップに直面する現在、M&Aおよびライセンス戦略と、それを支える知財部門の機能は、同社の将来を左右するほど重要性が高まっていると分析されます。
アステラス製薬の現在のポートフォリオを見れば、外部からの導入(ライセンスイン)とM&Aが同社の成長にいかに不可欠であったかは明らかです。
これら現在の主力製品および最重要KSPの多くが外部由来である事実は、アステラス製薬が自前主義に陥らず、有望な外部アセットを的確に評価し、獲得する能力に長けていることを示しています。同社はこれを「一体化されたオープンイノベーションとパートナリング」のケイパビリティと呼び、次世代の成長に不可欠な技術、シーズ(創薬の種)、能力を選択的かつ巧みに取り込む力であると定義しています²²。
前章で分析した通り、「ベオーザの穴」¹²を埋めるための緊急の外部アセット獲得の必要性が高まっていることから、M&A候補を評価する際の「知財デューデリジェンス(DD)」の戦略的重要性が飛躍的に高まっていると推察されます。
知財部門は、M&A案件において、対象企業が保有する特許ポートフォリオの法的な「質」と「量」を徹底的に精査します¹⁰。具体的には、対象特許の有効性(進歩性や記載要件などに無効理由はないか)、残存期間(いつまで独占権が続くか)、権利範囲(競合他社の回避設計を許さないか)、そしてFTO(他社の特許を侵害していないか)といった多角的な評価を行います。
このDDの精度が、買収価格の妥当性と、買収後の事業リスクを決定づけます。Iveric Bio社の買収(アイザーヴェイ獲得)¹²の成功は、この知財DDが的確に行われ、アセットの価値とリスクが正確に経営陣に報告された結果であると考えられます。今後、2027年の崖が迫る中で、アステラスの知財部門には、より迅速かつ正確なDDを実行する能力が、これまで以上に求められることになります。
一方で、この外部リソースへの高い依存度は、アステラス製薬の事業構造における潜在的な脆弱性でもあります。2022年度の有価証券報告書¹⁴には、前述のMedivationやSeagenのほか、Amgen Inc.、Gilead Sciences, Inc.、Merck & Co., Inc.、UCB Pharma, S.A.など、多数のグローバル製薬企業との技術導入契約がリストアップされています。
これは、アステラス製薬が単独では構築できない広範な技術ポートフォリオを、提携によって迅速に活用できるという強みであると同時に、構造的なリスクも内包しています。
同社の有価証券報告書⁶においても、事業等のリスクとして「当社グループのビジネスが他社の開発した医薬品のライセンス及び販売に一部依存するリスク」が明記されています。これは、ライセンス元の企業との契約不履行、関係悪化、あるいは(アステラス製薬がコントロールできない)ライセンス元が保有する基盤特許が無効化されるといった事態が発生した場合、アステラス製薬の製品販売が差し止められるなど、事業が直接的な打撃を受ける可能性を示唆しています。知財戦略において、自社開発知財と導入知財のバランスをどのように取るかは、恒久的な課題であると言えます。
アステラス製薬は、従来の創薬(Rx)の枠を超え、革新的なデジタル技術、医療デバイス、診断技術、バイオエレクトロニクス(生体電子工学)などを用いた新たなヘルスケアソリューション「Rx+(アールエックスプラス)事業」を立ち上げ、推進しています²。
この「Rx+事業」は、単なる新規事業領域の開拓という側面に加え、従来の医薬品特許モデルが抱える脆弱性からの脱却を図る、極めて高度な「IPポートフォリオ変革」戦略であると推察されます。
医薬品のIPモデル(主に物質特許)は、約20年の特許期間が満了すれば後発品参入によって価値が暴落する「パテントクリフ」²³や、IRAによる薬価交渉³¹といった根本的な弱点を抱えています。
一方、医療デバイスのIP(特許、意匠)、ソフトウェアのIP(著作権、アルゴリズム特許、営業秘密)、治療によって蓄積されるデータのIP(営業秘密、各種データ保護法制)は、医薬品特許とは異なる法体系と異なるライフサイクル(製品改良による継続的な保護など)を持ちます。
「Rx+事業」²が目指すのは、医薬品(Rx)と、これらの非医薬品(+)を組み合わせた「ソリューション」の提供です。例えば、「特定の診断薬(Dx)で患者を選別し、専用のデバイスを用いて医薬品(Rx)を投与し、治療効果をデジタルアプリでモニタリングする」といったパッケージです。
この複合的なソリューションにおいては、仮に中核となる医薬品(Rx)の物質特許が切れたとしても、関連する「診断薬の特許」、「投与デバイスの特許」、「モニタリングアプリのアルゴリズム(著作権または特許)」、あるいは「治療データの独占的アクセス権」などが残り、後発医薬品メーカーの参入障壁を格段に高めることができます。
これは、次章で述べる武田薬品の「パテント・フォートレス」²⁹を、異業種のIP(デジタル・デバイス)まで拡張した、より高度なライフサイクル・マネジメント(LCM)戦略であり、IRA時代における医薬品特許の価値低下に対する、長期的な回答の一つであると考えられます。
当章の参考資料
アステラス製薬の知財戦略の特徴と課題を客観的に評価するためには、同業他社、特に同じくグローバルに事業を展開する国内最大手の武田薬品工業株式会社(以下、武田薬品)との比較が極めて有益です。両社は異なる成長戦略とポートフォリオを有しており、その知財戦略にも顕著な差異が見られます。
両社の現在の知財戦略は、過去の大きな経営判断によって方向づけられています。
武田薬品の最大の転換点は、2019年に完了したシャイアー社(Shire plc)の約6.8兆円規模の巨額買収です²⁹。この買収により、武田薬品のポートフォリオは、それまでの低分子化合物を中心としたものから、生物学的製剤(バイオロジクス)、希少疾患治療薬、血漿分画製剤といった、製造プロセスが複雑で技術的参入障壁の高い領域へと劇的にシフトしました²⁹。
一方、アステラス製薬は、イクスタンジ(低分子化合物)という単一の超大型製品に支えられてきた体制から¹²、Iveric Bio社の買収(アイザーヴェイ獲得)¹²といったM&Aや、「Focus Areaアプローチ」²による新モダリティ(遺伝子治療、抗体医薬など)への内部投資を組み合わせることで、ポートフォリオの多角化を「急いでいる」段階にあると見られます。アステラス製薬の変革は、2027年のクリフという差し迫った脅威に対応する「防衛的」側面が強いのに対し、武田薬品のシャイアー買収は、より「能動的」なポートフォリオの全面的な刷新であったと評価できます。
両社の主力製品における知財防衛戦略の差異は、ポートフォリオの性質の違いを如実に反映しています。
武田薬品は、主力品である生物学的製剤「エンティビオ(Entyvio®)」(一般名:ベドリズマブ)において、「パテント・フォートレス(特許の要塞)」と呼ばれる、極めて強固な多層的知財戦略を採用しています²⁹。
これは、有効成分(抗体)そのものの物質特許だけでなく、「製剤、投与方法、製造工程といった様々な項目について特許権を保有」¹⁹、²⁹するものです。生物学的製剤は、低分子化合物と異なり、製造プロセス(細胞株の管理、培養、精製プロセスなど)が製品の最終的な品質や特性を大きく左右します。武田薬品は、この製造プロセスの複雑性という「技術的障壁」と、周辺技術を網羅する「特許網(パテント・シケット)」¹⁹を組み合わせることで、後続品であるバイオシミラーの参入障壁を著しく高めています。この戦略の結果、エンティビオの特許保護の一部は2032年まで存続するとされています¹⁹、²⁹。
一方、アステラス製薬の「イクスタンジ」も、化合物特許や用途特許¹⁰によって強固に保護されてきましたが、その本質は「低分子化合物」です。低分子化合物は、生物学的製剤と比較して構造が単純であり、後発品(ジェネリック)の製造が技術的に容易です。
この比較から、アステラス製薬のイクスタンジ(低分子)は、武田薬品のエンティビオ(バイオロジクス)と比較して、知財防衛の「脆さ」において根本的な構造差があったと推察されます。武田薬品の「パテント・フォートレス」²⁹は、模倣困難な「技術的障壁」と「法的障壁」のシナジーによって成立しています。アステラス製薬が長期戦略として推進する「Rx+事業」²(医薬品+デバイス/デジタル)の試みは、武田薬品がバイオロジクスで実現している「技術的障壁」を、デジタルやデバイスといった異なる分野で新たに構築し、低分子医薬の弱点を補おうとする戦略的意図の表れであると解釈できます。
外部イノベーションの取り込み方にも違いが見られます。
武田薬品は、湘南ヘルスイノベーションパーク(iPark)を拠点として、スタートアップやアカデミアが集積する一大エコシステムを構築しています²⁹。同社の知財部門は、このエコシステムに対し、IPランドスケープ分析の提供や知財コンサルテーションを行うことを通じて、外部の革新的な技術の「発掘・育成」に能動的に関与していると分析されています²⁹。
アステラス製薬も、大学やベンチャー企業との共同研究、ライセンスイン²、¹⁰を積極的に行っていますが、武田薬品のiParkのような大規模な「場」の提供によるエコシステム全体の育成よりも、個別のM&Aや提携を通じた有望なアセットの「選択と集中」に重点を置いているように見受けられます。
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比較軸 |
アステラス製薬 |
武田薬品工業 |
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中核的課題 |
イクスタンジ特許クリフ(2027年)¹² |
シャイアー買収に伴う巨額のれん償却、パイプラインの持続性²⁹ |
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ポートフォリオ |
低分子化合物(イクスタンジ)への高依存から、KSPs・新モダリティへ移行中¹²、²² |
シャイアー買収によりバイオロジクス、希少疾患、血漿分画製剤が中心²⁹ |
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主力品IP戦略 |
イクスタンジ(低分子):特許侵害訴訟による時間稼ぎ(防衛的)²⁵ |
エンティビオ(バイオ):『パテント・フォートレス』による多層的防衛(2032年まで)¹⁹、²⁹ |
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IRA影響 |
低分子(イクスタンジ)が早期影響(2025年〜)を受ける¹²。IRAは低分子に不利な設計³¹ |
バイオロジクス中心のポートフォリオは、IRAの設計上、相対的に有利³¹ |
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成長エンジン |
重点戦略製品(KSPs)の育成、および継続的なM&A・ライセンスイン¹²、²² |
既存の大型製品(エンティビオ等)の最大化と、内部パイプライン(臨床第3相 6品目)²⁰、²⁸ |
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イノベーション |
Focus Area(新モダリティ)²、AI創薬²²、Rx+(デジタル融合)² |
湘南iParkを中心としたオープンイノベーション・エコシステム²⁹、データ・デジタルの活用²⁰、²⁸ |
当章の参考資料
アステラス製薬の知財戦略は、その事業環境の変化に伴い、時間軸に応じて異なる性質のリスクと課題に直面しています。短期的には既存製品の収益性低下、中期的には収益の崖そのもの、長期的には新技術領域の不確実性という、連鎖的な課題構造が見て取れます。
最大の短期リスクは、2027年の特許クリフを待たずに収益性が悪化することです。米国インフレ抑制法(IRA)に基づき、2025年1月からメディケアパートDの再設計が施行されます¹²。これにより、イクスタンジは特許が有効であるにもかかわらず、公的保険からの支払額(収益)が実質的に目減りするリスクに直面しています¹²。これは、知財の法的保護期間と、経済的価値の享受期間がデカップリング(分離)し始めることを意味します。
イクスタンジの減収を補うべき重点戦略製品(KSPs)が、市場導入の初期段階で期待通りの成果を上げられないリスクです。特に、大型化が期待された「ベオーザ」のピーク時売上予想が大幅に下方修正された¹²ことは、2027年までの収益置換計画に大きな穴を開けるものであり、短期的な業績見通しへの強い下方圧力となります。
イクスタンジの後発品(ANDA)申請者に対する特許侵害訴訟²⁵は、後発品参入を遅延させるための不可欠な戦術ですが、これには巨額の訴訟費用(弁護士費用、専門家証人費用など)が先行して発生します(コストリスク)。また、訴訟の過程で、特許の有効性が争われ、万が一、裁判所によって特許が無効と判断された場合、想定よりも早期に後発品参入を許す(敗訴リスク)可能性もゼロではありません。
中期的に最大かつ最も深刻なリスクは、「2027年の崖」¹²そのものです。短期的な訴訟戦略²⁵によって時間を稼いだとしても、2027年以降にイクスタンジの主要特許が失効し、後発品が本格的に市場に参入すれば、年間7,500億円規模¹²の売上が数年間でほぼ消失します。これは、アステラス製薬の財務基盤、研究開発投資余力、ひいては企業価値全体に壊滅的な打撃を与える最大の経営リスクです。
このイクスタンジの莫大な収益減少を、KSPs(パドセブ、アイザーヴェイ等)の成長²²と、開発パイプライン(Focus Area由来のプロジェクト)¹⁸のPoC(概念実証)成功¹²が、時間通りに、かつ十分な規模でカバーしきれない可能性です。「ベオーザの穴」¹²によって、この収益ギャップがさらに拡大するリスクが顕在化しています。
前述の収益ギャップを埋めるための唯一の手段が、大型のM&Aまたはライセンスインです。しかし、有望な後期開発アセットは、グローバルな製薬企業間の激しい争奪戦の対象となります。その結果、適切な買収ターゲットが見つからない(不発リスク)、あるいは、過度な競争の末に極めて高額な買収(高値掴み)を余儀なくされ、投資対効果(ROI)が著しく悪化するリスクがあります。
アステラス製薬が長期的な成長の柱として投資する「Focus Areaアプローチ」²(遺伝子治療、標的タンパク質分解誘導¹⁸など)は、科学的・技術的難易度が従来の低分子医薬や抗体医薬と比較して格段に高い分野です。遺伝子治療薬「AT132」が安全性への懸念から臨床試験の差し止めを受けた¹²事例は、これらの分野へのR&D投資が、巨額の費用を投じても商業的成功に結びつかない(減損リスク)可能性が従来以上に高いことを示唆しています。
AI創薬²²や「Rx+事業」(デジタルヘルス)²といった新領域は、技術革新のスピードに法整備や規制当局の運用が追いついていない分野です。「AIが生成した発明の特許適格性」⁸、¹⁶や、「デジタル・デバイスと医薬品の融合製品」に関する承認プロセス・知財保護のあり方など、法的な不確実性が高い領域への事業展開は、予期せぬ法的障害に直面する長期的なリスクを伴います。
ポートフォリオの多くを外部からの導入技術・製品に依存する事業構造¹⁴は、短期的にはR&D効率を高めますが、長期的には脆弱性を抱え続けます。有価証券報告書⁶でもリスクとして認識されている通り、ライセンサー(技術導出元)との関係性、契約の安定性、あるいはライセンス元の基盤特許の安定性に、自社の事業が左右されるという構造的な依存リスクは、ポートフォリオが多様化しない限り継続します。
当章の参考資料
アステラス製薬の知財戦略は、同社を取り巻く外部環境の大きな変化、すなわち政策(IRA)、技術(AI)、市場(個別化医療)の動向と密接に接続しながら、その姿を変えていくものと予想されます。これらのメガトレンドは、同社の知財ポートフォリオの構成と、知財部門の実務そのものの変革を不可逆的に促すと考えられます。
米国のインフレ抑制法(IRA)³⁰、³²は、製薬業界の知財戦略におけるゲームのルールを根本的に書き換える、長期的な影響を持つと見られます。IRAの薬価交渉制度は、単なる薬価引き下げに留まらず、R&D投資のインセンティブ(動機づけ)をモダリティ(医薬品の種類)ごとに歪める効果を持つためです。
複数の分析³¹によると、IRAの制度設計は、上市から薬価交渉が開始されるまでの猶予期間が、低分子化合物(Small Molecules)よりも生物学的製剤(Biologics)の方が長く設定されており、生物学的製剤を優遇(あるいは低分子化合物を冷遇)するものとなっています。
この政策動向は、アステラス製薬の知財戦略に対し、二重の影響を与えると推察されます。第一に、イクスタンジ(低分子)¹²という現在の柱が持つ脆弱性を、政策的にも増幅させることになります。第二に、同社が「Focus Areaアプローチ」²において、遺伝子治療や抗体医薬(これらは生物学的製剤に分類される)へのR&Dシフトを急ぐことが、単なる科学的興味や市場機会の追求だけでなく、IRAという新たな政策環境下で知財価値を最大化するための「合理的な経営判断」であることを裏付けます。
IRAの存在³¹は、アステラス製薬のR&Dおよび知財戦略における「脱・低分子化合物」の流れを、不可逆的なものとして強力に後押ししていると考えられます。今後の知財戦略は、単に「特許が取れるか」だけでなく、「IRAの薬価交渉の対象となりやすいか、なりにくいか」という新たな評価軸を組み込むことが必須となると見られます。
アステラス製薬が導入を進めるAI駆動型創薬プラットフォーム²²は、R&Dのスピードと効率を向上させる一方、知財部門の実務そのものを大きく変容させると予想されます。
発明の源泉が「ヒトの研究者のひらめき」から、「AIによる膨大なデータの解析とヒトの研究者の協働」へと移行することにより、従来の知財実務が前提としていたプロセスが通用しなくなる可能性があります。
具体的には、社内の「職務発明制度」⁴の見直しが必要となる可能性があります。AIの貢献度をどのように評価し、発明者である従業員への報奨金にどう反映させるか、という新たな論点が生じます。
さらに重要なのは、出願戦略です。AIが自律的に生成した医薬品候補化合物について、前述の「発明者適格性」の問題¹⁶をどのようにクリアし、日米欧各国の特許庁の審査を通過させるか、という高度な法的戦略の策定が急務となります。AIの「ブラックボックス性」⁸(AIがなぜその結論を出したかを説明しにくい問題)も、特許出願に必要な「実施可能要件」(発明の実施方法を詳細に記載する要件)を満たす上で、新たなハードルとなる可能性があります。知財部門には、AIエンジニアと法務専門家の両方の知見を融合させた、新たな専門性が求められるようになると推察されます。
アステラス製薬が2025年度から導入した「患者軸」への組織転換²²は、市場のトレンドが「マス(大衆)向けのブロックバスター」から、「個別化医療」や「ニッチな疾患領域(アンメットメディカルニーズ)」へとシフトしていることへの直接的な対応でもあります。
この市場動向は、知財戦略のあり方にも変革を迫ります。同社が推進する「Rx+事業」²(診断と治療の融合)は、この個別化医療の潮流を捉えるものです。
今後の知財戦略の主流は、単一の医薬品(物質特許)で市場を独占するモデルから、より複合的なIPポートフォリオの構築へと移行すると推察されます。例えば、以下のような要素を組み合わせた「IPバンドル(束)」戦略です。
このように、「診断(Dx)+治療(Rx)+デジタル(DTx)」を一つのソリューションとしてIPで保護することにより、仮に医薬品の物質特許が切れたとしても、競合他社は「医薬品だけ」をコピーできても「ソリューション全体」を模倣できず、市場での優位性を長期間維持できる可能性があります。
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本レポートの分析に基づき、アステラス製薬が「2027年の崖」を乗り越え、持続的な成長を実現するために、知的財産戦略の観点から導出される戦略的な示唆を、経営、研究開発(R&D)、事業化(知財・法務)の3つの視点で提言します。
イクスタンジが直面する「二重の崖」(2025年からのIRA影響と2027年の特許クリフ)¹²、³⁰、およびKSP戦略における「ベオーザの穴」¹²という現実は、内部のR&Dパイプラインの成長だけでは2027年の危機を乗り越えられない可能性が極めて高いことを示唆しています。
経営陣は、この時間的制約を直視し、知財部門と事業開発(BD)部門に対し、次なる大型収益源となり得る外部アセット(M&Aまたはライセンスイン)を「迅速に」かつ「高値掴みを避けて」実行するための最大限のリソースを配分することが求められます。
その際、M&AやR&Dの投資判断における評価項目として、従来の「市場ポテンシャル」や「科学的妥当性」に加え、「IRA耐性」³¹を最重要KPIの一つとして組み込む必要があります。具体的には、「低分子化合物(IRAに不利)か、生物学的製剤(相対的に有利)か」、「希少疾患(交渉対象外の可能性)か、生活習慣病(交渉対象の可能性)か」といった、IRAの制度設計³¹を踏まえた知財・収益性評価を徹底することが、将来のポートフォリオの安定性に不可欠です。
2027年までのカウントダウンは、全社的な危機管理(クライシス・マネジメント)のフェーズに入ったことを意味します。イクスタンジの特許侵害訴訟²⁵の進捗は、同社の数千億円規模の売上の帰趨を直接左右します。経営陣は、この訴訟の重要性を全社で共有し、法務・知財部門に最高の布陣を敷くとともに、訴訟のあらゆるシナリオ(勝訴、敗訴、和解)を想定した財務・事業インパクトのシミュレーションを行い、即応可能なコンティンジェンシー・プラン(緊急時対応計画)を策定しておく必要があります。
イクスタンジの(低分子化合物としての)構造的脆弱性¹²と、武田薬品のエンティビオ(生物学的製剤)の「パテント・フォートレス」戦略²⁹、¹⁹の成功事例は、R&D部門にとって重要な教訓となります。
現在開発中のKSPsや新モダリティのパイプラインにおいて、R&Dの初期段階から知財部門と一体となり、中核となる物質特許だけでなく、周辺技術(製造プロセス、製剤、投与デバイス、バイオマーカー、AI診断アルゴリズム等)の特許網を意図的に、かつ多層的に構築する「パテント・フォートレス」戦略を設計・実行することが不可欠です。これにより、単一の特許が失効しても製品価値の急落を防ぐ、より強靭なIPポートフォリオの構築を目指すべきです。
AI創薬プラットフォーム²²の活用は、R&Dのスピードアップに貢献しますが、後から知財の問題¹⁶に直面すれば、そのリードタイムは失われます。R&D部門は、AIプラットフォームを利用した創薬プロジェクトの開始時点から知財部門を参画させ、科学的な課題解決と、AIが生成した成果物の「発明者性」や「特許適格性」⁸といった法的論点のクリアランスを「同時並行」で進める業務プロセスを確立する必要があります。
2025年度からの新体制「患者軸」²²において、知財・法務部門に求められる役割は、従来の「ゲートキーパー(門番)」や「リスク・アドバイザー」ではありません。プロジェクトの「時間切れ」が最大の経営リスクである以上、知財部門は「ビジネス・アクセラレーター(事業加速装置)」へと変貌する必要があります。
「リスクゼロ」を追求して事業のスピードを落とすのではなく、法的なリスクを定量的に評価し、事業スピードを最大化するために「許容可能なリスク」の範囲を経営陣やプロジェクトチームに迅速に提示する、より戦略的かつ攻撃的なビジネスパートナーとしての機能が求められます。
「Rx+事業」²の成功は、その技術的な新規性だけでなく、前例のない知財戦略を構築できるかどうかにかかっています。医薬品特許、医療機器特許、ソフトウェア著作権、データ保護法制など、異なる法域と異なるライフサイクルを持つIP群をどのように組み合わせ(バンドルし)、各国の薬事規制(FDA、PMDAなど)による承認プロセスとどう連動させれば、最も強固で持続的な市場独占性を構築できるか。この「Rx+のIPプレイブック」を早期に確立することが、知財部門に課せられた最も重要な中長期的ミッションであると推察されます。
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本レポートは、アステラス製薬の知的財産戦略が、同社の存続をかけた極めて重大な転換点に差し掛かっていることを明らかにしました。
中核的な課題は、2027年の「イクスタンジ」特許クリフ¹⁰、¹²という単一の事象ではなく、米国IRAによる「2025年からの収益性低下」³⁰という、より早期かつ複雑な「二重の崖」への対応を迫られている点にあります。
この脅威に対し、同社の知財戦略は、短期的にはイクスタンジ特許侵害訴訟²⁵による「時間稼ぎ」という防衛戦を展開しています。しかし、その水面下では、KSP「ベオーザ」の失速¹²によって生じた新たな収益の穴を埋めるため、知財部門を中核とした緊急のM&A・ライセンスイン活動²²が、最重要の経営課題となっていると推察されます。
武田薬品の生物学的製剤中心の強固な「パテント・フォートレス」戦略²⁹との比較は、アステラス製薬がIRA時代において低分子化合物に依存してきたことの構造的脆弱性を示唆しています。同社が推進する「Focus Area(新モダリティ)」¹⁸、「AI創薬」²²、「Rx+事業」²への注力は、この脆弱性から脱却し、従来の医薬品特許モデルとは異なる、より強靭なIPポートフォリオを構築するための必然的な長期的戦略であると結論付けられます。
2025年度の「患者軸」組織への移行²²は、この全社的な変革を「時間切れ」になる前に完遂するための、オペレーション改革の号砲であると位置づけられます。アステラス製薬の知財部門は、法的な守護者であると同時に、この変革を加速するエンジンとしての役割を担っていると言えるでしょう。
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