3行まとめ
経営と同期した「創造と活用」の両輪体制
知財戦略を経営戦略と完全に同期させ、「創造(Creation)」と「活用(Utilization)」を担う専門組織を両輪とすることで、知財をイノベーションサイクルドライバーとして機能させている。
顔認証技術で特許総合力1位(548.1)の「特許の要塞」を構築
AI・生体認証分野に知財を集中投下し、顔認証技術の特許総合力で第1位(スコア548.1)を獲得。競合を圧倒する「パテント・フォートレス(特許の要塞)」を築いている。
国家戦略「イノベーションボックス税制」とシンクロ、30%所得控除の追い風
2025年4月導入の「イノベーションボックス税制」と戦略が完全に一致。AI知財からのライセンス所得等に30%の所得控除が適用される見込みで、強力な追い風となる。
この記事の内容
本レポートは、日本電気株式会社(以下、NEC)の知的財産(以下、知財)戦略について、公開されている一次情報を基に網羅的かつ多角的に分析したものです。NECの知財戦略は、単なる法的防御機能に留まらず、経営戦略と一体化した事業競争力の源泉であり、社会価値創造を駆動するエンジンとして位置づけられています。
本分析から得られた主要な結論は以下の通りです。
総じて、NECの知財戦略は、明確なビジョン、戦略と連動した組織、選択と集中によるポートフォリオ構築、そして多様な活用モデルを組み合わせた、極めて精緻で先進的なものであると評価されます。本レポートでは、これらの要素を詳細に分析し、今後の事業展開における戦略的示唆を提示します。
日本電気(NEC)の知的財産(以下、知財)戦略は、現代の企業経営における知財の役割が、従来の権利保護やリスク回避といった受動的な機能から、事業成長を牽引し、新たな企業価値を創出する能動的な機能へとシフトしている潮流を体現する先進的な事例として注目されます。同社の知財活動は、単独の機能として存在するのではなく、全社的な経営戦略の根幹に深く組み込まれており、その基本方針には明確な思想とビジョンが反映されています。本章では、NECの知財戦略がどのような思想的背景に基づき、全社ビジョンとどう連携しているのかを解き明かし、その戦略的意図を明らかにします。
NECは、知的財産を「事業競争力や事業安定性、さらにはお客さまやパートナーとの共創を促進する重要な経営資源」と明確に位置づけています¹⁻²。この定義は、知財が単なる法務・コンプライアンス上の管理対象ではなく、事業ポートフォリオを強化し、市場での優位性を確立し、さらには外部との連携を円滑にするための戦略的資産であるという認識を示しています。この認識は、知財部門をコストセンターとしてではなく、事業機会を創出するプロフィットセンター、あるいはイノベーションの起点として捉える現代的な知財経営観を明確に反映したものです。この基本方針は、同社の長期ビジョンである「NEC 2030VISION」の実現、および具体的な実行計画である「2025中期経営計画」の達成と不可分一体の関係にあります¹。具体的には、中期経営計画で定められた成長事業領域、すなわち「コアDX」「デジタル・ガバメント及びデジタル・ファイナンス」「グローバル5G」や、これらに続く次世代の成長の柱を生み出す技術領域に対し、知財リソースを集中的に投下する方針が明示されています¹⁻³。これにより、事業戦略と知財戦略が完全に同期し、経営資源の選択と集中が効率的かつ効果的に行われる体制が構築されていると見られます。
この経営と一体化した知財活動を象徴する独自の概念が、「イノベーションサイクルドライバーとしての知的財産活動」です⁴。このフレームワークは、NECの技術や知見を社会価値に転換し、企業価値を向上させるサイクルを描いたものであり、知財活動がそのサイクルを駆動する「エンジン(ドライバー)」としての役割を担うことを示しています⁴。これは、研究開発の成果を知財として保護するという一方向的なプロセスに留まらず、創出・保護された知財が次の技術革新や新たな事業創造を誘発し、再び研究開発へとフィードバックされる循環的なプロセスを意図していると推察されます。知財部門が事業や開発、研究の「パートナーとして共創」し、経営・事業環境における知財活用を「先読み」することで、社会価値創造を支えるというビジョン⁵は、この思想を具体的に表現したものです。
このような先進的な知財戦略が単なる部門レベルの方針に留まらず、全社的な経営マターとして扱われていることは、経営トップのコミットメントからも窺えます。2025年2月には、NECの森田隆之社長をはじめとする経営幹部が日本特許庁長官と直接意見交換を行い、知財戦略について議論しています⁶。規制当局のトップと企業経営のトップが直接対話する機会を持つこと自体が、同社がいかに知財を経営の重要課題として認識しているかの証左と言えるでしょう。この会談において、NECが「ITサービス事業と社会インフラ事業によって社会価値を創造することを目指して、知的財産活動を通じて新たなイノベーションの創出及び企業価値の向上に取り組んでおられ」る、と特許庁側から評価されていることからも⁶、同社の戦略が外部からも高く認識されていることがわかります。
これらの基本方針や活動から導き出される重要な点は、NECにおける知財部門の役割が、根本的に変革されている可能性です。従来、多くの企業において知財部門は、研究開発部門が生み出した発明の出願手続きを行ったり、他社からの権利侵害に対して防御したりといった、事業活動の後工程を担う「支援部門」としての性格が強い傾向にありました。しかし、NECが用いる「イノベーションサイクルドライバー」⁴や「パートナーとして共創」⁵、「事業と並走」³といった言葉は、そのような受動的な役割からの脱却を示唆しています。これは、知財部門が事業サイクルの最上流から関与し、事業の方向性を共に描き、新たな価値創造のサイクルを能動的に始動させる「戦略的パートナー」へと進化を遂げたことを意味する可能性があります。例えば、IPランドスケープ(知財情報分析)から得られた競合の動向や技術の空白領域に関する洞察を、次の研究開発テーマ設定に反映させるよう経営層に進言したり、自社の強力な知財ポートフォリオを武器に、新たなアライアンスや事業提携を事業部門に提案したりするなど、知財部門が事業の起点となりうる活動が想定されます。したがって、NECの知財戦略の根底には、単なる方針の転換だけでなく、知財部門の機能、権限、そして組織内での位置づけを再定義し、経営の中枢に組み込むという、組織論的な変革が存在すると推察されるのです。
NECの先進的な知財戦略は、それを支える強固で体系的な組織基盤があって初めて実効性を持ちます。同社の知財組織は、全社的な戦略を一元的に統括する中央集権的な専門部隊、グローバルな事業展開に対応する海外拠点、そしてグループ全体の活動を実務面で支える専門子会社が有機的に連携する、多層的かつ機能的な構造を特徴としています。さらに、この組織を動かす「人」の育成にも多大な投資を行い、専門人材の高度化と全社的な知財リテラシーの向上を両輪で進めています。本章では、NECの知財戦略を支える組織体制、グローバルなネットワーク、そして人材育成システムを解剖し、その強さの源泉を探ります。
全社的な知財活動の司令塔となるのは、「知的財産&ルールメイキング部門」です⁵。この部門は、事業戦略や技術戦略と緊密に連携し、NECグループ全体の知財活動を統括・推進する役割を担っています⁷⁻⁹。その内部構造は、知財のライフサイクルに対応した機能別の編成となっている点が特徴的です。主要な組織として、知的財産の創造支援・権利化、ポートフォリオ構築、ノウハウ管理などを担う「知的財産ポートフォリオ構築統括部」と、知財ライセンスなどを通じて知的財産の活用を支援し、価値創出や活用促進に取り組む「渉外統括部」が設置されています¹⁰。さらに、採用情報からは、知財コンサルティングなどの企画業務を担当する「企画戦略グループ」や、訴訟対応および部門全体へのリーガルアドバイスを行う「訴訟&カウンセル統括部」といった、より専門性の高い機能部隊の存在も確認できます⁷⁻⁹。このような機能分化は、知財の創出から権利化、活用、防衛、戦略策定に至るまで、各フェーズで高度な専門性を発揮できる体制を意図したものと考えられます。
NECの事業がグローバルに展開されていることに伴い、知財組織もまた世界的なネットワークを構築しています。海外の研究所や外国政府機関との連携を密にし、グローバルな知財ポートフォリオの強化を支援するため、北米、欧州、中国に知的財産センターを設置しています¹⁰⁻¹¹。これにより、各地域のビジネス環境や法制度に即した、きめ細やかで戦略的な知財活動が可能となります。例えば、米国での長期・短期の実務研修や米国弁護士とのワークショップがキャリアパスの一環として用意されていることからも⁸、特に重要な市場である米国における知財実務能力の強化に注力していることが窺えます。
グループ全体の知財活動を実務レベルで強力にサポートしているのが、子会社であるNEC特許技術情報センター(NEC-NEPAS)です。同社は、NECグループに特化した知財サービスを提供しており、その事業内容は多岐にわたります。具体的には、「知的財産創造サービス」として、開発の初期段階から権利活用までをサポートする特許創造支援や、意匠・商標の創作支援、後述する知財教育サービスを提供しています¹²⁻¹³。「知的財産情報サービス」としては、国内外の特許取得・保全といった管理業務の効率化支援や、特許統合管理システムの運用支援を行っています¹²⁻¹³。さらに、「情報ソリューションサービス」として、戦略策定や企画立案に資する特許調査やビジネス調査を、事業部門と密接に連携しながら提供しています¹²⁻¹³。このように、本社知財部門が戦略策定や重要渉務に集中できる環境を、専門子会社が実務面で支えるという分業体制が、グループ全体の知財活動の効率性と専門性を高めていると見られます。
これらの組織を実質的に機能させる上で最も重要な要素は、人材です。NECは知財人材の育成に並々ならぬ力を注いでいます。「知的財産&ルールメイキング部門」のメンバーの専門性をグローバルトップレベルにすることを目標に掲げ¹¹、若手に対してはコーチ・メンターによる個人指導と並行して、知的財産協会などの外部研修への参加をサポートしています¹¹。さらに、外国特許制度を実地で習得する機会として、前述の米国への業務研修なども実施しており¹¹、グローバルに通用する専門人材の育成に戦略的に取り組んでいます。採用情報においても、特許ライセンス契約に関する5年以上の実務経験や民法・特許法の知識、英語力などが必須要件として挙げられており⁷、即戦力となる高度専門人材の確保にも積極的です。
特筆すべきは、知財教育の対象を知財部門の専門家だけに限定していない点です。NECは、研究職や技術職はもちろんのこと、「営業職にも知財リテラシーは必須」という明確な考えのもと¹¹、階層別教育をはじめ、それぞれの業務内容に対応した知財教育を全社レベルで実施しています¹¹。これは、単なるコンプライアンス遵守やリスク管理の徹底を目的としたものに留まらない、より高度な戦略的意図に基づいていると推察されます。顧客との交渉の最前線に立つ営業担当者が、自社の技術が強力な特許で保護されていることをアピールし、製品やサービスの付加価値として顧客に訴求できるようになること。あるいは、顧客が抱える課題に対し、自社が保有する未活用特許を応用したソリューションを提案する、いわゆる「知財営業」を展開できるようになること。さらには、顧客との対話の中から新たな技術ニーズを汲み取り、それを発明創出のシーズとして研究開発部門や知財部門にフィードバックすること。このように、営業職への知財教育は、全社の営業網を知財の価値を伝えるアンバサダーであり、新たな知財の源泉を探るセンサーとして機能させるための戦略的投資と見ることができます。これにより、組織全体の知財活用能力を飛躍的に高め、知財を「知財部門の専門知識」から「全社の現場の武器」へと昇華させることを目指していると考えられます。
このように、NECの知財組織は、その構造自体が「Creation & Utilization(創造と活用)」という戦略を体現しています。「知的財産ポートフォリオ構築統括部」と「渉外統括部」という2つの主要組織を並立させている点¹⁰は、知財を「創ること」と「活かすこと」を同等に重視する戦略思想が、組織図のレベルで明確に具現化されていることを示しています。これは、権利化のみを重視する伝統的な知財組織とは一線を画すものです。知財のライフサイクルの入口から出口まで、一貫して高い専門性を持って管理・推進しようとする強い意志が、このバランスの取れた組織構造に表れていると言えるでしょう。
NECの知財戦略は、抽象的な方針に留まらず、具体的な技術領域の選択、多様な収益モデルの構築、そしてパートナーを巻き込むエコシステムの形成という、三つの側面から緻密に実行されています。本章では、これらの側面を詳細に分析し、NECがいかにして知財を競争優位性と事業成長に結びつけているのかを解き明かします。
NECの知財ポートフォリオ戦略の最も顕著な特徴は、将来の成長を見据えた技術領域への徹底した「選択と集中」です。同社は、研究開発の中心を、AI技術を活用したデータ解析で新たな価値を創造する『データサイエンス』領域と、それを支える『ICTプラットフォーム』領域に明確に定めています³。この方針は、具体的な数値目標を伴って実行されており、その徹底ぶりはポートフォリオの構成比の変化に明確に表れています。全出願件数に占める注力領域の割合は、2017年度末の45%から2024年度末には80%へと大幅に増加し、全保有特許件数に占める割合も同期間で44%から66%へと高まっています¹⁴。これは、過去の資産に固執することなく、将来の事業の核となる技術領域へ、明確な意思を持って知財リソースを再配分していることの証左です。2024年度時点でのNECグループの総保有特許件数は約43,000件にのぼりますが¹⁴、その質的な転換が着実に進んでいることが窺えます。
この「選択と集中」戦略が特に大きな成果を上げているのが、AI技術の中核をなす生体認証の分野です。NECはこの分野で、他社の追随を許さない圧倒的な競争優位性を築いています。特許分析会社パテント・リザルト社が実施した「顔認証関連技術」の特許総合力ランキングにおいて、NECは総合力スコア548.1を獲得し、2位のパナソニック(182.0)や3位のオムロン(177.1)を大きく引き離して第1位の評価を得ています¹⁵。このスコアは、個々の特許の注目度を点数化したものであり、NECが保有する特許群の質が極めて高いことを示しています。同時に、有効特許件数においても68件と、主要競合他社を上回っており¹⁵、質と量の両面で他を圧倒している状況です。さらに、「生体認証関連技術におけるID連携またはカスタマーエクスペリエンス(CX)に関する技術」という、より事業応用に踏み込んだ領域の調査においても、同様に特許の質・量ともに第1位の評価を獲得しています¹⁶⁻¹⁷。
この優位性は国内に留まりません。国際特許出願(PCT出願)の累積件数においても、生体認証および映像認識の分野で世界No.1のポジションを確立しています¹⁸⁻¹⁹。これらの実績を背景に、NECは「生体認証」「映像認識」「分析・対処AI」の3つの領域において、2025年までにグローバルNo.1の特許群を獲得するという野心的な目標を掲げています¹⁹⁻²⁰。
顔認証分野におけるこの圧倒的な差は、単なる「優位性」という言葉では表現しきれない戦略的な意味合いを持っています。これは、競合他社がこの分野に新規参入すること、あるいは既存のプレイヤーがNECの技術を回避して同等以上の性能を持つ製品を開発すること自体を極めて困難にする、一種の「パテント・フォートレス(特許の要塞)」を築き上げていることを示唆しています。この堅固な要塞は、自社の製品やサービスが他社の特許を侵害するリスクを低減し、事業の自由度を確保するという「守り」の機能を持つと同時に、他社がNECの技術を利用せざるを得ない状況を作り出し、ライセンス交渉を有利に進めるための強力な「攻め」の武器となります。この状況下では、競合他社はNECにライセンス料を支払うか、市場からの撤退を余儀なくされるか、あるいは全く異なる技術アプローチでの開発という大きなリスクを負うかの選択を迫られることになります。したがって、NECの生体認証分野における特許ポートフォリオは、単なる権利の束ではなく、市場のルールを規定し、競争環境そのものを自社に有利な形でコントロールするための、極めて高度な戦略的資産として機能していると言えるでしょう。
NECは、構築した強力な知財ポートフォリオを、多様な手法を用いて収益や企業価値の向上に結びつけています。そのアプローチは、伝統的なライセンス事業による直接的な収益獲得と、知財を核とした新たな事業創出による間接的・長期的な価値創造を組み合わせた、ハイブリッド型のモデルを特徴としています。
まず、直接的な収益源として、伝統的な特許ライセンス事業が重要な位置を占めています。特に、顔認証技術のような世界トップクラスの強みを持つ先端技術分野において、他社に技術を提供し、その対価としてライセンス料を得ることで収益の拡大を図っています²¹。同社が特許ライセンス業務を担う実務遂行職から課長クラスまで、幅広い層で人材を募集していることからも²²⁻²³、この事業領域の重要性が窺えます。これは、研究開発投資を回収し、安定的なキャッシュフローを生み出すための基盤となる活動です。
一方で、NECの知財活用戦略の先進性は、単なるライセンス収入の追求に留まらない点にあります。その一つが、自社の知財を活用したスタートアップの創出と支援です。特筆すべきは、米国シリコンバレーに設立した事業開発拠点「NEC X」の活動です。NEC Xは、NECが保有する膨大な知財の中から事業化のシーズを発掘し、外部の起業家とマッチングさせることで、北米市場をターゲットとした新たなスタートアップを創出するプログラム「Elev X!」を運営しています²⁴。この取り組みは、2021年以降で10件のスタートアップのローンチに成功するなど、着実な成果を上げています²⁴。また、NEC本体でも、独自の因果AI(Causal AI)技術を事業化し、スピンアウトさせる形で「hootfolio株式会社」を設立する²⁵など、社内技術のカーブアウト(切り出し)による事業化も行われています。
さらに、社外のスタートアップに対しても、自社の知財を積極的に提供することで、その成長を支援しています。例えば、電力データをAIで分析し、脱炭素化や利便性向上を目指すインフォメティス株式会社に対し、同社の事業に関連する日米特許を譲渡しました²⁶。これは、インフォメティス社の特許ポートフォリオを強化し、グローバルな事業拡大を後押しするものです。同様に、持続可能な森林投資の革新を目指すシンガポールのスタートアップ企業に対しても、関連特許を譲渡しています⁵。これらの活動は、直接的な金銭的リターンのみを目的とするものではなく、社会課題の解決に貢献する(CSV: Creating Shared Value)と同時に、将来的に自社と協業しうる有望なパートナーを育成し、共に成長するエコシステムを構築するという、長期的な視点に立った戦略的投資と見ることができます。
このように、NECの知財活用戦略は、金融におけるポートフォリオ運用にも似た、巧みなリスク分散とリターン追求の構造を持っています。確立された技術からのライセンス収入は、比較的低リスクで安定したキャッシュフローをもたらす「債券」的な役割を果たします。一方で、NEC Xによる事業創出やスタートアップへの特許譲渡は、成功確率は低いものの、一つでも成功すれば(例えば、支援した企業がユニコーン企業へと成長すれば)計り知れないリターンが期待できる、ハイリスク・ハイリターンな「ベンチャーキャピタル投資」に類似しています。この二つのアプローチを同時に推進することで、NECは知財という無形資産から、短期的な安定収益と長期的な爆発的成長機会の両方を追求しています。これは、単一の収益化モデルに依存する企業に比べて、より強靭で持続可能な知財活用戦略と言えるでしょう。
NECは、知的財産を単に自社の技術を保護し、他社を排除するための排他的な権利として捉えるのではなく、むしろ積極的に外部のパートナーを巻き込み、新たな価値を共に創造するための「触媒」や「共通言語」として活用しています。市場における知財のプレゼンスを向上させるための戦略的活動として、「標準化、エコシステム、ソートリーダーシップ」を明確に掲げていることからも²⁻²⁷、その姿勢は明らかです。
この思想を具現化する中核的な取り組みが、「NEC Open Innovation」戦略です。これは、社内外の知見、技術、人材をつなぎ合わせることで、多様な社会的課題に応える新規事業を継続的に生み出すことを目的としたものであり、その仕組みの中で知的財産の活用が重要な役割を担っています¹⁴。前述したスタートアップへの特許譲渡や活用支援は、このオープンイノベーション戦略の具体的な実践例です。自社だけでは事業化しきれない、あるいは事業領域が異なるために活用されていなかった「休眠特許」を、それを必要とする社外のプレイヤーに提供することで、新たなイノベーションの種を蒔き、社会全体での価値創造を促進しています。過去には、自社の知的資産を社外に開示し、技術ニーズと潜在顧客ニーズとの幅広いマッチングを図る「イノベーションマーケットプレイス」といったウェブサイトを開設していたことからも²⁸、知財のオープン化に対する積極的な姿勢が窺えます。
オープンイノベーションを推進する上では、自社の技術やノウハウを外部と共有する際に、意図せぬ権利の喪失や流出を防ぐための知財管理が不可欠となります。NECグループでは、この課題に対応するため、タイムスタンプを利用して発明の存在と時期を証明し、先使用権の確保や営業秘密の管理を強化するツール「ReportFilingⅡ」などを開発・提供しています²⁹⁻³⁰。これは、オープンな連携を進める一方で、自社の守るべき権利はしっかりと保護するという、リスク管理の側面も重視していることを示しています。
しかし、オープンイノベーションの推進は、常に順風満帆なわけではありません。特に、知的財産の流出や将来の訴訟リスクから会社を守るという重要なミッションを持つ知財部門(資料中では「守り人」と表現)と、事業を迅速に成長させるために外部との連携を積極的に進めたい事業部門との間には、必然的に緊張関係が生まれます³¹。事業を成長させるために必要なことと、知財部門が守りたいこととのバランスを取るプロセスには、多大な困難が伴うことも示唆されており³¹、オープンイノベーションの理想と現実の間のジレンマを乗り越えるための組織的な努力が続けられていると考えられます。
この一見矛盾するような動き、すなわち知財の積極的な開放と、厳格な保護管理の並存は、NECが極めて高度な「オープン&クローズ戦略」を実践していることを示しています。これは、全ての知財を一律に扱うのではなく、その戦略的重要性に応じて取り扱いを明確に使い分けるアプローチです。顔認証のコアアルゴリズムや競争力の源泉となる基盤技術は、徹底的に特許網で固め、営業秘密として秘匿することで「クローズド」に保護し、参入障壁を築きます。一方で、その応用技術や、自社のコア事業から外れる分野の技術、あるいは活用しきれていない休眠特許については、積極的に「オープン」化し、ライセンス供与や特許譲渡を通じてスタートアップやパートナーを巻き込み、広範なエコシステムを形成するための「撒き餌」として活用します。この、どの知財を「守るべき核(クローズ)」とし、どの知財を「撒くべき種(オープン)」とするかという戦略的な判断基準こそが、自社の競争優位性を損なうことなく、オープンイノベーションの果実を最大限に享受するための要諦であり、NECの知財戦略の巧みさを象徴していると言えるでしょう。
NECの知財戦略の独自性と優位性をより明確に理解するためには、同業の国内大手電機メーカーである富士通株式会社(以下、富士通)および株式会社日立製作所(以下、日立)との比較分析が不可欠です。各社ともに知的財産を重要な経営資源と位置づけ、先進的な取り組みを進めていますが、その戦略思想、組織体制、重点領域、そして活用手法にはそれぞれ特徴的な差異が見られます。本章では、これら3社の知財戦略を比較検討し、NECの戦略的ポジショニングを浮き彫りにします。
まず、富士通の知財戦略は、企業の存在意義(パーパス)である「イノベーションによって社会に信頼をもたらし、世界をより持続可能にしていくこと」を起点としています³²⁻³³。このパーパス実現のため、特に社会課題解決への貢献という側面が強く意識されています。組織的には、知財部門(知財グローバルヘッドオフィス)がゼネラルカウンセル配下の「ビジネス法務・知財本部」に所属しており³⁴、法務機能やリスク管理との連携を重視した体制となっている点が特徴です。技術ポートフォリオは、「5 Key Technologies」(AI、コンピューティング、ネットワーク、データ&セキュリティ、コンバージング技術)と呼ばれる重点領域に経営資源を集中させる方針を採っています³²⁻³³。知財の活用面で最も特徴的なのは、自社事業で使われていない未活用特許を社外に開放し、オープンイノベーションを促進する「FUJITSU Technology Licensing Program for SDGs」です³²⁻³³。国や自治体が開催する「知財マッチング会」への積極的な参加を通じて、地域企業やスタートアップへの技術ライセンス供与を推進しており³²、知財の社会還元と資産の流動化を重視する姿勢が鮮明です。
次に、日立の知財戦略は、同社が推進する社会イノベーション事業と、その中核をなすデジタルソリューション「Lumada」の成長に貢献することが最優先課題とされています³⁵。その思想は、公共性の高い特定分野の知財を社会規範の維持・進化に活用し、社会課題解決に貢献する「IP for society」というコンセプトにも表れています³⁶。組織面では、経営層の一員としてCIPO(Chief Intellectual Property Officer)を任命し、そのリーダーシップのもとでグローバルな知財活動を統括・推進する体制を構築しています³⁵。これは、知財戦略が経営の意思決定と直結していることを示す強力な体制と言えます。ポートフォリオ構築においては、特定技術に固執するのではなく、発明起点から脱却し、顧客が求める価値や市場動向を分析するIPランドスケープ活動を起点とすることを重視しています³⁷⁻³⁸。知財活用は、Lumadaのエコシステムを強化するための戦略的ツールとして位置づけられており、M&Aやパートナーとの協創を知財面から支援することに注力しています³⁵。
これら競合の戦略と比較することで、NECの知財戦略の独自性がより際立ちます。以下の比較表は、3社の戦略的アプローチの違いをまとめたものです。
表1:主要電機メーカーの知財戦略比較
|
項目 |
日本電気 (NEC) |
富士通 |
日立製作所 |
|
基本思想/スローガン |
イノベーションサイクルドライバー⁵、事業競争力と共創の促進¹ |
パーパス起点³²、SDGs貢献³³ |
Lumada事業貢献³⁵、IP for society³⁶ |
|
組織体制 |
独立性の高い知財部門⁵、Creation/Utilizationの2軸体制¹⁰ |
法務部門配下³⁴、リスク管理との連携重視 |
CIPO主導³⁵、経営直結型 |
|
ポートフォリオ戦略 |
特定技術領域(生体認証等)での「要塞」構築¹⁵ |
5 Key Technologiesへの集中³³ |
顧客価値・市場分析起点³⁸、Lumada関連技術への集中³⁵ |
|
特徴的な活用施策 |
事業カーブアウト(NEC X)²⁴、スタートアップへの戦略的特許譲渡²⁶ |
未活用特許のライセンスプログラム(for SDGs)³²、知財マッチング³² |
M&A・協創の知財面からの支援³⁵、エコシステム強化³⁵ |
この比較表から、各社の知財戦略の「性格」の違いが明確に読み取れます。
NECは、世界トップクラスの技術力を基盤に、その技術的優位性を最大限に活用して新たな事業を創出し、市場をリードすることを目指す**「技術起点・事業創出型」**の戦略と言えます。生体認証分野で見られるような「パテント・フォートレス」の構築は、技術的優位性を他社が模倣不可能なレベルにまで高め、それを交渉力に変えるという強い意志の表れです。また、NEC Xによる事業カーブアウトは、知財を直接的な事業の種として捉える、極めて積極的な活用姿勢を示しています。
富士通は、自社が保有する膨大な知財資産を社会全体の課題解決のために活用しようという、**「社会貢献・資産流動化型」**の戦略が特徴です。特に未活用特許を積極的に社外にライセンスするプログラムは、知財を死蔵させることなく、社会全体でその価値を最大化しようという思想に基づいています。これは、オープンイノベーションの中でも特に「アウトバウンド型(内部技術の外部活用)」に重点を置いたアプローチと見ることができます。
日立は、Lumadaというデジタルプラットフォームを核としたエコシステムの構築と拡大を知財戦略の最重要目標に据える、**「プラットフォーム・エコシステム強化型」**の戦略です。知財は、プラットフォームの価値を高め、パートナー企業を惹きつけ、エコシステム全体の競争力を向上させるためのツールとして戦略的に用いられます。M&Aや協創を知財面から支援することに注力しているのは、この戦略を反映したものです。
結論として、3社ともに知財を重視している点は共通していますが、その目的と手段には明確な違いが存在します。NECの戦略は、特定の技術領域における圧倒的な深さと、それを事業化へと繋げる強力な推進力にその独自性があります。富士通が「広さ」と「社会性」を、日立が「連携」と「プラットフォーム」を重視するのに対し、NECは「深さ」と「事業創出」を知財戦略の核に据えていると言えるでしょう。この戦略的ポジショニングの違いが、各社の競争優位性の源泉となっていると推察されます。
NECの知財戦略は多くの強みを持つ一方で、その先進性と高度さゆえに、多様なリスクと課題に直面しています。これらのリスクは、即時的な対応が求められる短期的なものから、事業環境の変化に伴い顕在化する中長期的なものまで、時間軸を考慮して多角的に分析する必要があります。本章では、NECの知財戦略が内包する潜在的なリスクと、将来にわたって克服すべき課題を、短期・中期・長期の視点から考察します。
NECが直面する最も重大かつ喫緊の課題は、サイバー攻撃による技術流出のリスクです。同社が保有するAIや生体認証などの先端技術は、国家レベルのアクターを含む外部の攻撃者にとって極めて魅力的な標的となります。このリスクが現実のものであることは、2020年1月に公表された不正アクセス事件によって浮き彫りになりました。この事件では、NECの防衛事業部門が利用する社内サーバーが不正アクセスを受け、サーバーに保存されていた27,445件のファイルへのアクセスが確認されました³⁹。流出した可能性のある情報には、海上自衛隊向けの潜水艦用センサーに関する資料など、安全保障に関わる機微な情報も含まれていたと報じられています³⁹。NECは、防衛機密に該当する情報はネットワークから遮断された場所に保管しており、流出等の被害事実は確認していないと発表しましたが³⁹、高度な技術情報が常に狙われているという厳しい現実を突きつけられた形です。
この事件が示唆する重要な点は、NECの競争力の源泉が、公開情報である特許だけに依存しているわけではないという事実です。むしろ、顔認証技術で世界一の精度を誇る(2023年時点)⁴⁰その核心は、特許出願せずに意図的に秘匿されているアルゴリズムの微細なチューニング、学習に用いた膨大なデータセット、そして技術者のノウハウといった「営業秘密(トレードシークレット)」に大きく依存していると推察されます。特許は、技術を公開する代償として20年間の独占排他権を得る制度ですが、営業秘密は非公開である限り永続的に保護されうる一方で、一度漏洩すればその価値は瞬時に失われ、回復は不可能です。サイバー攻撃によってこの「見えざる資産」が流出すれば、たとえ堅固な特許網(パテント・フォートレス)を築いていたとしても、競争優位性は致命的なダメージを受けかねません。近年急速に普及している生成AIの業務利用においても、従業員が機密情報を入力してしまうことによる情報漏洩リスクが指摘されており、NEC自身もその対策の重要性に言及しています⁴¹。したがって、サイバーセキュリティの確保は、単なるITインフラの管理問題ではなく、NECの知財戦略における最重要の防衛課題であり、継続的な投資と警戒が不可欠な短期的リスクと言えます。
グローバルに事業を展開し、多くの先端技術を保有するNECにとって、特許侵害を巡る訴訟リスクは常に存在する中期的な経営課題です。過去には、液晶ディスプレイ分野で韓国のLG.Philips LCD社と⁴²、マイクロプロセッサ関連技術で米国の知財管理会社TPL Groupなどと⁴³、米国で特許侵害訴訟を争った経験があります。近年も、欧州統一特許裁判所(UPC)で係争中の事件の当事者として名前が挙がるなど⁴⁴、国際的な知財紛争のリスクは継続しています。特に、NPEs(Non-Practicing Entities:特許不実施主体)と呼ばれる、自らは製品を製造せず、特許権の行使によって収益を得る企業からの訴訟リスクは、今後も高まる可能性があります。訴訟には多大な費用と時間がかかるだけでなく、経営資源を消耗させ、ブランドイメージを損なう可能性もあります。強力な特許ポートフォリオは防御の盾となりますが、訴訟リスクを完全にゼロにすることはできず、常に適切な対応が求められます。
もう一つの中期的な課題は、オープンイノベーションの推進に伴うジレンマです。前述の通り、NECはスタートアップ支援やパートナーとの共創を積極的に進めていますが、これは自社の技術やノウハウを外部と共有することを意味します。事業を迅速に成長させたい事業部門と、知財の流出を防ぎ、将来のリスクを管理したい知財部門との間には、必然的に「アクセル」と「ブレーキ」のような緊張関係が生じます³¹。このバランスをいかに取るかは、極めて難しい経営判断を要します。過度に保護を重視すれば、イノベーションのスピードが鈍化し、市場機会を逃すかもしれません。逆 に、連携を急ぐあまり知財管理が疎かになれば、自社の競争力の源泉を失うリスクがあります。この事業スピードとリスク管理のトレードオフは、今後も継続的に向き合わなければならない中期的な経営課題です。
長期的な視点では、NEC自身の強みであるAI技術の進化が、知的財産制度そのものを揺るがし、新たな課題をもたらす可能性があります。現在、特許法をはじめとする知財関連法規は、発明者や創作者を「自然人(人間)」とすることを前提としています。しかし、生成AIの能力が向上し、人間が介在することなくAIが自律的に新たな発明や創作物を生み出すようになった場合、その権利の帰属や保護のあり方が大きな論点となります。
世界各国で「AIは発明者になれるか」という議論が始まっており、将来的に法制度が大きく変更される可能性も否定できません。もし、AIによる発明が保護の対象外となったり、あるいは従来とは異なる形で保護されたりするようになれば、AI技術を駆使して研究開発を行っているNECの知財戦略は、根本的な見直しを迫られることになります。また、AIが既存の膨大な特許情報や論文を学習し、容易に新たな技術的解決策を生成できるようになれば、特許の「進歩性」の判断基準が引き上げられ、権利化のハードルが全体的に高まる可能性も考えられます。
NECは、AI関連技術で世界をリードする企業であるからこそ、この制度的・環境的な変化の最前線に立つことになります。この不確実性の高い未来において、現在の知財ポートフォリオの価値を維持・向上させ、新たな競争優位性を確保し続けるためには、技術開発の動向だけでなく、国内外の法制度や政策の動向を注意深く監視し、ルール形成の議論にも積極的に関与していくことが、長期的な戦略課題となるでしょう。
NECの知財戦略の将来を展望する上で、同社を取り巻く外部環境、すなわち政府の政策、日進月歩の技術、そして変化し続ける市場の動向を的確に捉えることが不可欠です。これらのマクロな潮流は、NECの戦略にとって大きな機会(追い風)となる一方で、新たな挑戦(向かい風)をもたらす可能性も秘めています。本章では、政策、技術、市場という三つの観点から外部環境を分析し、それがNECの知財戦略に与える影響と今後の方向性を考察します。
現在の日本政府の経済政策、特に知的財産に関する政策は、NECの知財戦略にとって極めて強力な追い風となっています。政府は「知的財産推進計画」を毎年策定しており、その中で知財・無形資産への投資を促進し、それを企業価値向上に繋げる「知的創造サイクル」の活性化を国家戦略として掲げています⁴⁵⁻⁴⁶。この思想は、NECが独自に掲げる「イノベーションサイクルドライバー」の概念と軌を一にするものであり、両者の方向性は完全に一致しています。
この政策的支援を象徴するのが、2025年4月からの導入が予定されている「イノベーション拠点税制(いわゆるイノベーションボックス税制)」です。これは、国内で自社開発した特許権やAI関連のソフトウェア(著作物)から生じるライセンス所得や譲渡所得に対して、30%の所得控除を認めるという画期的な税制優遇措置です⁴⁵⁻⁴⁶。NECは、AI関連技術、特に生体認証や映像認識の分野で世界トップクラスの知財ポートフォリオを保有しており、これらの知財からのライセンス収入は重要な収益源の一つです。この新税制は、NECのAI知財から得られる収益の税負担を直接的に軽減し、収益性を大幅に向上させる効果が期待されます。これにより、研究開発への再投資余力が生まれ、さらなるイノベーション創出を加速させるという好循環を生み出す可能性があります。
このように、日本政府が推進する「知財・無形資産投資の促進」「AI分野の強化」「イノベーションボックス税制」といった一連の政策は、あたかもNECの既存戦略を後押しするために設計されたかのように見えるほど、その方向性がシンクロしています。これは、NECが国の政策動向を的確に読み解き、先んじて戦略を構築してきた結果であるとも考えられます。いずれにせよ、NECは国策という大きな波に乗る絶好のポジションにおり、今後、政策的な支援を最大限に活用して知財活動を加速させ、競合他社に対する優位性をさらに高めていくものと展望されます。
技術面では、NECの強みであるAI技術そのものの進化が、今後の知財戦略に大きな影響を与えます。特に生成AIの急速な発展は、研究開発のプロセスを劇的に変化させ、新たな発明創出の機会を飛躍的に増大させる可能性があります。一方で、AIが生成した成果物の著作権や特許性の判断は、従来の枠組みでは対応が難しく、知財実務をより複雑化させる要因ともなっています。
この変化に対応するため、日本の特許庁はAI関連発明に関する審査基準や審査事例を随時更新・拡充しており、その動向に迅速かつ的確に対応した出願戦略が、今後の権利化の成否を分ける重要な鍵となります⁴⁷⁻⁴⁸。例えば、近年の特許庁の審査事例では、単に既存の業務をAIでシステム化しただけでは進歩性が認められにくく、学習に用いる教師データの独自性や前処理の工夫、従来技術では考慮されていなかったパラメータの導入、あるいは特定の技術課題を解決するための学習アルゴリズムの改良といった、より深いレベルでの技術的貢献が求められる傾向が強まっています⁴⁹⁻⁵⁰。NECは、AI技術の最先端を走る企業として、これらの審査動向をいち早く研究開発の現場にフィードバックし、権利化を見据えた発明創出を行うことが求められます。AIを単なるツールとして利用する段階から、AIの学習プロセスや応用方法そのものに発明の核心を見出すという、より高度な研究開発・知財戦略へのシフトが不可欠となるでしょう。
現代のデジタル市場における競争の主戦場は、個別の製品やサービスの機能優位性を競う段階から、多様なプレイヤーを巻き込んだプラットフォームやエコシステム全体の競争力へとシフトしています⁵¹。このような環境下では、自社の技術を独占するためだけでなく、他社との連携(アライアンス)や業界標準の形成を有利に進めるための戦略的ツールとして、知的財産の重要性が一層高まっています²⁷。
NECが掲げる「標準化、エコシステム、ソートリーダーシップ」を重視する戦略²⁷は、この市場動向を的確に捉えたものです。例えば、5Gやその先の6Gといった次世代通信規格の分野では、自社の技術が国際標準に採用されるか否かが、将来のライセンス収入や市場シェアを大きく左右します。そのためには、優れた技術を発明し、特許出願するだけでなく、標準化団体での議論を主導し、他社との交渉を有利に進めるための戦略的な知財活動が不可欠です。
また、DX(デジタルトランスフォーメーション)が進展する中で、異業種間の連携や共創が新たな価値を生み出す源泉となっています。NECが推進するオープンイノベーション戦略、特にスタートアップへの特許譲渡や活用支援といった取り組みは、自社の技術を核としたエコシステムを形成し、将来の事業機会を創出するための布石と見ることができます。今後、市場のデジタル化とプラットフォーム化がさらに加速する中で、自社の知財をいかに戦略的に活用し、強力なエコシステムを築き上げることができるかが、NECの持続的な成長を左右する重要な要素となるでしょう。知財部門には、単なる権利管理に留まらず、事業部門と一体となってエコシステム戦略を構想し、実行する役割がますます求められることになると展望されます。
これまでの分析に基づき、NECがその先進的な知財戦略をさらに発展させ、持続的な企業価値向上を実現するために、経営、研究開発、事業化という三つの異なる視点から、具体的かつ実行可能なアクション候補を提言します。これらの提言は、NECの既存の強みをさらに強化し、潜在的な課題に対応することを目的としています。
提言1:知財価値のIRにおける可視化強化と非財務情報開示の高度化
本分析で明らかになった通り、NECは顔認証分野における圧倒的な特許総合力スコア¹⁵や、NEC Xを通じた事業カーブアウト²⁴、スタートアップへの戦略的特許譲渡²⁶といった、質・量ともに優れた知財ポートフォリオと先進的な活用モデルを有しています。しかし、これらの無形資産の価値が、必ずしも株式市場における企業価値評価に十分に反映されているとは限りません。今後は、これらの知財活動の成果を、単なる活動報告としてではなく、事業の収益性や将来の成長性といった財務指標と結びつけて、投資家向け情報(IR)として積極的に開示していくべきです。例えば、「顔認証関連特許群がもたらす事業の参入障壁の高さと将来のライセンス収益ポテンシャル」や、「NEC Xから生まれたスタートアップの企業価値総額とNECのエコシステムへの貢献度」などを具体的に数値化・可視化し、統合報告書やサステナビリティレポートで重点的に説明することが考えられます。これにより、投資家やアナリストの理解を深め、無形資産を重視する現代の資本市場の要請に応えることで、企業価値の適正な評価に繋がる可能性があります。
提言2:「最高知財責任者(CIPO)」の設置検討とガバナンス体制の強化
NECの知財部門は既に経営と密接に連携していますが、その戦略的重要性を社内外にさらに明確に示すため、競合である日立製作所の事例³⁵も参考に、経営会議の正式な構成員として「最高知財責任者(CIPO: Chief Intellectual Property Officer)」を設置することが有効な選択肢となり得ます。CIPOを設置することで、知財戦略が経営の最上位レベルで常に議論される体制を公式化し、M&A、大規模な事業提携、研究開発の重点領域決定といった重要な経営判断に、知財の視点がより深く、迅速に反映されることが期待できます。また、CIPOの存在は、投資家に対して知財ガバナンスの強化をアピールする上でも有効であり、企業の透明性と信頼性の向上に寄与すると考えられます。
提言3:特許庁のAI審査基準に最適化された発明創出プロセスの確立
AI関連技術の特許審査は、その技術的特異性から、判断基準が日々進化しています。特許庁が公表する最新の審査事例⁴⁹⁻⁵⁰を分析すると、AIを単にツールとして業務に適用しただけでは進歩性が認められにくく、①学習に用いる教師データの選択や前処理方法の独自性、②特定の技術課題を解決するための学習アルゴリズムや損失関数の改良、③従来技術では予測困難な顕著な効果、といった点が重視される傾向にあります。この動向に対応するため、研究開発の初期段階から知財部門の担当者が深く関与し、これらの審査基準上のポイントをクリアできるような発明の構成を共に検討するプロセスを、より一層体系化・強化することが求められます。これにより、研究開発の成果を、より確実かつ強力な特許権として結実させることが可能となります。
提言4:「パテント・フォートレス」の次なる標的領域の戦略的選定
顔認証分野で成功した、競合を圧倒する「パテント・フォートレス(特許の要塞)」構築戦略¹⁵は、NECの知財戦略における成功モデルです。この成功体験を、次の成長が見込まれる技術領域で再現するための、中長期的な研究開発・知財投資計画を策定すべきです。候補となりうる領域としては、NECが既に技術的優位性を持つ「因果AI」²⁵や「秘密計算技術」⁵²、あるいは次世代ネットワーク制御技術などが考えられます。これらの領域において、将来の市場規模と技術的優位性を確立できる可能性をIPランドスケープ等の手法を用いて分析し、戦略的な標的を定めた上で、研究開発リソースと知財出願費用を集中的に投下することが、持続的な競争優位性を確保する上で有効な戦略となるでしょう。
提言5:「NEC X」モデルの国内展開と事業創出プロセスの体系化
シリコンバレーで成功を収めている事業カーブアウトモデル「NEC X」²⁴は、NECの知財活用の先進性を象徴する取り組みです。この成功モデルを、日本の市場環境やスタートアップエコシステムに合わせてカスタマイズし、国内でも展開することを検討すべきです。例えば、国内の大学や研究機関、ベンチャーキャピタルと連携し、NECの休眠特許を技術シーズとして提供する共同インキュベーションプログラムを設立することなどが考えられます。これにより、シリコンバレーで得たノウハウを国内のイノベーション創出に活かすことができます。さらに、事業創出のプロセスを、個別の成功事例から、再現性のあるフレームワークへと昇華させ、「知財からの事業創出」をNECの新たな成長エンジンの一つとして確立することを目指すべきです。
提言6:知財ライセンスのサービス化・メニュー化によるオープンイノベーションの加速
スタートアップや異業種の企業がNECの強力な知財ポートフォリオをより容易に活用できるよう、ライセンス提供の仕組みをサービスとして体系化・メニュー化することが考えられます。例えば、特定の技術分野(例:画像認識AI)や用途(例:製造業向け外観検査)ごとに、標準的なライセンス契約のパッケージを用意し、ウェブサイト上で条件を明示することで、交渉プロセスを簡略化し、迅速な技術導入を可能にします。さらに、技術サポートやコンサルティングを組み合わせた付加価値の高いライセンスメニューを提供することも有効でしょう。これにより、潜在的なライセンスパートナーとの接点を増やし、オープンイノベーションの裾野を広げ、より多くの共創機会を創出することが期待できます。
本レポートで実施した多角的な分析の結果、日本電気(NEC)の知的財産戦略は、現代のデジタル経済において企業が持続的に成長するための、極めて洗練されたモデルケースであることが明らかになりました。その戦略は、単なる権利の「保護」という伝統的な役割を大きく超え、事業と完全に同期した「創造」と、多様な形態による「活用」を両輪とする、動的な価値創造システムとして機能しています。
最重要論点として挙げられるのは、NECの知財戦略が「選択と集中」の原則に基づき、特定の技術領域において意図的に「非対称な競争優位性」を構築している点です。生体認証分野における「パテント・フォートレス」の形成は、その典型例であり、市場の競争ルールそのものを規定するほどの戦略的資産となっています。この強力な「クローズド」な核を持つ一方で、スタートアップ支援や事業カーブアウトといった「オープン」な活用を組み合わせることで、リスクを管理しつつ、エコシステム全体での価値向上を目指す高度な戦略的柔軟性も兼ね備えています。
この分析が経営上の意思決定に与える含意は、知的財産を単なるコストやリスク管理の対象としてではなく、未来のキャッシュフローを生み出す「投資対象」として明確に位置づけることの重要性です。NECの事例は、知財ポートフォリオへの戦略的投資が、いかにして強固な参入障壁、新たな事業機会、そしてエコシステムにおける主導権といった形で、具体的な企業価値に転換されうるかを示しています。
今後の課題は、この先進的な戦略を、サイバー攻撃による技術流出という現実的なリスクからいかに守り抜くか、そしてAIの進化に伴う知財制度自体の変化にいかに適応していくかにあります。経営層は、知財の価値をIR活動などを通じてステークホルダーに適切に伝達し、その価値を企業評価に反映させると同時に、それを支える組織、人材、そしてセキュリティ体制への継続的な投資を怠ってはなりません。NECの知財戦略は、無形資産の価値が企業盛衰を決する時代における、一つの道標となる可能性を秘めていると言えるでしょう。
本レポートのPDF版をご用意しています。印刷や保存にご活用ください。
本レポートは、公開情報をAI技術を活用して体系的に分析したものです。
情報の性質
ご利用にあたって
本レポートは知財動向把握の参考資料としてご活用ください。 重要なビジネス判断の際は、最新の一次情報の確認および専門家へのご相談を推奨します。
ここでしか読めない発明塾のノウハウの一部や最新情報を、無料で週2〜3回配信しております。
・あの会社はどうして不況にも強いのか?
・今、注目すべき狙い目の技術情報
・アイデア・発明を、「スジの良い」企画に仕上げる方法
・急成長企業のビジネスモデルと知財戦略